大震災を振り返って



【匿名】

 その時私は、大きな横揺れで目を覚された。横揺れの前に、地鳴と共に、縦揺れが3回あったらしいが、眠っていたので分からなかった。布団の中で、しばらく様子をうかがっていたが、なかなか揺れが治まらず「これは大地震だー」と気付き、飛び起きた。真っ暗なので、いつもの所に置いてある、懐中電灯を探したが、中々見つからず、あちこち探しているうちに地震は治まった様だ。耳を澄ますと、ジャージャーと水の出る音、温水器が、30度位 に傾き、パイプが壊れ、水が部屋に向かって吹き出しているのが目に入った。「下の部屋に漏れる! どうしよう。元栓はどこ、元栓はどこ」と、探し廻っているうちに、ハッと、気付いた。「玄関の外のPSボックスだ!」と。ガスと水道の元栓を、思いっきり閉めた。数分後、隣の奥さんか、顔色を変えて、「温水器の水が止まらない」と走り迫っていたので、得意気に教えてあげた。
 後で分かった事だけど、大抵の家の温水器が壊れたらしい。そのためか、その後二日間程天井からポタポタと水漏れが続き、バケツでそれを受け止めていた。
 夜も、しらじらと明けて来たので、近くに住む長女の所へ車で行ってみた。百棟くらいある、浜甲子園団地は、何事もなかった様ないつもの静けさで、娘達も、まだ眠そうな顔で起きて来た。「どうもなかったん?」「ちょっと物が落ちた程度」だと言う。西脇にいる、息子の所へも安否の確認をし、安心する。
 一月十七日の勤務は(日勤)だ、今日はどうしてでも、クリニックに出勤しなければ、いつもより十分早く、武庫川団地に住んでいるMさんと一緒に、主人の車に乗せてもらい出発した。車の中で朝食のかわりにミカンを1個つつ食へた。臨海線を西へ、西へ、車窓から見る風景は、ただ、ただ驚くばかり。今津あたりから北上し、43号線を越え、2号線に入る頃から車が渋滞しはじめ、のろのろ運転で前に進まなくなった。「歩いた方が早いねえ」「ここから歩こう」、JR西宮駅あたりから歩き、やっとの思いでAM8時45分頃到着した。
 息咳切って二階へ、院長と、Yさんが来ていた。部屋を一見し「これは大変!」と思った。カルテ棚からは、カルテが全部落ち、ベットは丁度毎週水曜日の大掃除の時の様に全部動いていた。おまけに暖房機の孔から黒い煤が舞い降り、白い、シーツは、ゴマをまいた様だった。頭元の棚からは、5kgの束にして保管していた古い透析記録が、転り落ちていた。廊下にはテレビが散乱し、心電図の記録等が放り出されていた。洗場では、いつも患者さんの机の上に置いてあるステンレスのパット(コッヘル7本、針、クリン、シーツ、カットパンをセットにして入れてある物)が(多分、ガラガラ、ガッチャンという音がしたであろう)床に散乱し、水浸しの床に、クリン、シーツがへばりついていた。
 いつでも透析が開始されてもいいように、先ずは片付けから始めた。次に三階へ、廊下にはこれ又本の山が行く手を塞ぎ、本の上を靴のまま、歩くより仕方かなかった。休憩室を見て、もう、目を覆いたくなった。前日の鏡開きの(せんざいの残り)が、鍋事放り出され、茶碗や、コップの欠片(かけら)とミックスされ、べたべたとこびりつき、拭けば拭く程畳の目の中に入っていった。院長、副院長の部屋も本で部屋がうまっていた。本は重たいものだとこの時痛感した。一階では患者さんが、次々と来院し、他院等への紹介で、ごった返していた。PM8時、やっと透析が開始された。今日は長期戦になりそうだ。 この日はとても長い一日でした。
 月日のたつのは何と早い事か、あの震度7という、戦後最大規模の大震災から、三ケ月が過ぎ、死者は現在五五〇〇人に達してしまった。未だ避難所で、不自由な生活を強いられている人々も多い。しかし樹木というものは、強いものだ。地の中深く根を張り、あの震度にも耐え、強い生命力で残っていてくれた。今年は桜の開花が、待遠しかった。さっそく休みの日、夙川公園に行って見た。木々は、きれいな花を咲かせ、満開だった。この時期、花を見ると、ほっとする。沈みがちな人々の心を慰め、喜ばせてくれる。復興の槌音も響き渡り、あちこちでクレーン車が活躍していた。
 私にとって、この大震災は、自分史の1ページとして書き加えられる大きな出来事であった。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック