「その日」



【匿名】

 「お姉ちゃん、大丈夫っ?」 揺れが一段落した時、隣室の妹が叫んだ。
 「大丈夫、元気!」ベッドから起きて、壁に張り付いていた私は、そう答えて、ドアに手をやった。「お母さん大丈夫?お父さん大丈夫?」妹が、又、叫んだ。
 「居間に家族が集まった時、停電している事が解った。懐中電灯をつけて部屋を見渡す。
 「ビデオとCDの海!」 「あーっ、お醤油がこぼれてるっ。」 「ナポレオンの首が飛んでる〜。」
 焦臭い。火事は何処か。町が騒がしい。
 「お祖母ちゃんと伯父さんに連絡が付かないよ。」「甲子園口の駅か無いって!。」 明るくなってきた頃、テレビの地震速報で、事態を知る。私の部屋は、足の踏み場が無い。鞄も免許証も窓際の机の横に有る。妹の手を借りて、ベッドの上や洋服掛け・箱・棚・机を踏み越えて鞄と免許証、洋服の一部を何とか持ち出した。   クリニックが気に掛かり、電話をかけたが、繋がらない。院長宅へも事務長宅へも電話が通 じない。やっとクリニックに繋がった。
 「そちらの具合はどうですか?」
 「ロッカー、棚等が倒れて、今それを直してる所。」と事務長の返事。急ぎ車で出発した。主要道路は既に大渋滞となり、信号を1つ進むのに三十分も掛かった。仕方無く、狭い道を使う事にしたが、今度は倒壊家屋や道路の亀裂・陥没で、どこも行き止まり状態。目の前にクリニックが見えていながら、なかなか辿り着けない。パンク覚悟で瓦礫の上を走る。それでも四時間掛かった。
 クリニックの外観は、私の予想より、遙に綺麗だったので、少し安心した。が、内に入ると、院長・副院長・事務長・十数人の看護婦さん、FさんやNさんが私服で作業に就いていた。 「患者さんやスタッフはどんな状況ですか?」「朝一番で透析機器業者へ修理の依頼をしたけど、渋滞で到着が何時になるか解らない。午前透析予定の患者さんで自力移動の可能な方は、Uさんと共に宝塚の病院へ向かった。」事務長からの話と入れ違いに、「宝塚も断水で透析不能」との連絡が入った。既に道中の患者さん達に、それを伝える術も無く、皆が戻って来るのを待つしかなかった。
 クリニックの電話も非常に掛かりにくい状態だった。市外へは殆ど不通状態だった。持って行ったトランシーバーで発信してみる。クリニック界隈の男性が受信してくれた。一階のピンクの電話も壊れていた。テレビも有線放送も駄 目。コンピューターも配線が切れていた。外の公衆電話で連絡を取る。公衆電話は暗黙の了解で、皆一回一件の電話。一件電話をしたら、又、列の最後尾に並び、順番を待つ事を繰り返す。ファックスのプラグを直し使える様にした。これで各透析施設と情報のやり取りが出来る。だが電話同様、非常に繋がり難い。音信不通 の患者さんも数名おり、安否が気に掛かる。
 院長が大阪の病院をピックアップし、馬見塚さんが連絡を取り、幾つかの透析施設で緊急透析の快諾を得た。搬送用の救急車を院長が直々に再三依頼したが中々来ない。街中が、消防車・救急車・パトカーの音で、一体どれがクリニックに向かっている救急車か判らず何度も出たり入ったりした。やっと、一台の救急車が到着したのは午後七時を廻っていた。急を要する患者さんから順に救急車に乗って貰った。午後八時半、透析機器が一部復旧し、クリニックで待っていた患者さんの透析を順次開始した。宝塚へ行った人達が戻って来たのは夜中だった。
 その日、最後の患者さんが透析を開始ししたのは夜中三時過ぎ。大阪の透析受け入れ施設へ公衆電話から連絡をし、患者さんの到着と透析状況を確認した。夜明け近く迄、院長とMさんが、次の透析予定を考え、その表を元に、各患者さんへ早朝連絡を入れた。外は明るくなって来ていた。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック