震災を体験して
“私の一番長い日”



【匿名】

 夙川沿いの桜が今年も見事に花開き通行人の日を楽しませてくれています。散歩の途中あまりに綺麗に咲き誇っている桜の大木を見ていると、三ケ月前のあの大震災はいったい何だったんだろうかと思ってしまいます。尊い多くの人命を奪い移しい家屋や公共施設を倒壊させた大自然の恐ろしさを私達はまのあたりにまざまざと見せつけられました。今日迄人間社会が自然界に対し何十年間と及ばした破壊行為や汚染の“ツケ”を一度に返されたような感があります。
 地震の直後は茫然自失という言葉がありますが正にあの時のことを云うのでしょう。ミキサーで掻回された後のような状態の中で何をしているのか判らない時間が過ぎ、院長からの電話でふと我にかえり、午前七時すぎにクリニックへ駆け付けると、内心気掛かりだった建物は外観異常なしと見えたので少しホットした気持で中に入ると、玄関・待合室付近は物が散乱し、薬局は薬棚と分包機が倒れ、ドアの開閉が出来ない状態。事務室は人間一人では動きそうもないロッカーや金庫が倒れたり前にせり出されて、床には書類等が散らばっておりましたが、クリニックに来る道中で住宅が道路の中央にあったり、何軒もの倒壊家屋を見ているので、然程驚きはなかったように思います。
 先ず困ったことは、機械室のRO装置配管が破損し、透析が出来ないということです。早速機械メンティナンスの会社へ電話をかけたがなかなか通 じず午前八時ころやっと連絡がとれ、至急修理を依頼しましたが、交通渋滞の為担当者がクリニックに着いたのは、午後三時頃でした。修理作業終了後、透析可能になったのは午後八時を過ぎていました。透析が出来ると安心したのも束の間、次に大きな問題が待ちかまえていました。断水で受水槽には四トン前後の水しかありません。十七日午前中より市水道局に幾度となく依頼しておりましたが、浄水場もパイフの損傷激しくいつ給水に来て貰えるか日処が立たず、目の前が真っ暗になり、透析に関する“水の必要性”を給水担当者に何度も記明し、一回目の給水が十七日午後一時半にありました。(ニトン)  その間昼頃から患者さん達は受け入れてくれるという宝塚病院に交通マヒの中、六時間位 かけてやっとの思いで着いた時は宝塚の方も断水で透析が出来ず、又六・七時間かかって当クリニックに帰ってこられるという大変な思いをされて本当に心が痛みました。
 次の二回目給水が不確定でいつになるか判らないという不安と同時に昼過ぎから患者さんを大阪に送る為救急車の依頼もしておりましたが、こちらのほうも救急車の数が少なく市内だけでも手一杯でとても大阪方面 には出せないと言われ、患者さんの病状を院長に説明してもらい、再三要請して一台消防署に救急車が戻ってきたらクリニックに行かせますと約束してくれたのが夕方近くで、それからはサイレンの音が聞こえる度に外に出て見るのですが、他の場所に行く救急車ばかりでなかなかクリニックには来ず二時間以上経過してやっと来てくれました。最初に依頼した時より六時間以上もたっておりました。定員五人のところ十三人の患者さん達に乗ってもらい、大阪の透析施設(三ケ所)へ送りました。その後暫くして午後八時すぎより十七日の透析が始まり、午後十一時過ぎから一時間位 のあいだに宝塚へ行かれた患者さんが次つぎと戻ってこられ、真夜中から朝方まで透析が行われました。十八日午前0時を過ぎた頃には水の心配が深刻になってきました。十七日午後八時すぎの透析開始時点で受水槽の残量 では十八日朝からの透析分に足りません。
 一回目の給水後十七日午後三時すぎから二回自の給水依頼を何度となくしましたが、この段階では市水道局も“水不足”と“人手不足”で給水体制が整っておらず“命にかかかわることですから”と何度、哀願しても「最優先はするけれどもおたくのクリニックだけではないんだから準備が出来る迄待ってほしい」と云われ、同様のやりとりを何回か繰返しているうちに涙声で嘆願していたのを記憶しています。
 十八日午前二時半に二トンの給水がありました。一回目の給水より十三時間経過しておりましたがこれでなんとか十八日朝からの透析が可能になりました。終戦時に“日本の一番長い日”という表現がありましたが、私が体験した一番長い日がこの日でありました。
 十八日午前九時に近くの酒造会社に走り給水車を依頼しましたが所有されておらず、社長さんの紹介でアサヒビール西宮工場にお願いし十八日は西宮工場から十九日以降は吹田工場よリボランティアの給水(一日約二トン)を受け、又二十六日からは松村組の給水(一日二トン)もあり、その間水道局は他府県の応援で給水体制も整い二十日過ぎには一日平均六トン〜八トンの給水を受けられることが出来ました。ボランティアの給水で震災二日目には水量 が底をついた時、市会議員の方の紹介による給水があったり、“患者さん”の御家族が浄水場よりポリタンク(二十l)十数個分を運んで下さったり、皆様方の必死の活動のおかげで最大のピンチを切り抜けることが出来、誠に感謝にたえません。又震災当日より患者さんや御家族の方々より食料品や飲みものを頂き、クリニックで準備すら出来ていない状態の時だったので有難く助かりました。
 震災後、時がにつにつれ感じることは、冒頭に述へたように“自然とのお付合い”が大事なことではないでしょうか。地球全体の環境保全、世界の国レベルでの国際会議等い以前に比へると、頻繁に行われておりますが、私達一人一人の意識もこの際一層深めていくことが肝要かと存じます。
 この震災で“ライフライン”という言葉がよく使われましたが、私は“救援ライン”を災害時に備え、確立したものにしておく必要が大であると思います。先ず行政が、早い時期に幹線道路等の渋滞を解消し得る様な規制をし、“救援物資”や救急車、消防車、給水車等の救援を他府県より速やかに受けられる(陸・海・空から)ラインを考えないと、震災時の如く後手後手に回り対応が遅れてしまいます。又我々も被災の経験を生かし、日常の身近かなところから(ライフラインを含む)災害を想定した対応策を講じねばなりません。あれもやらねば、これもせねばと気ぜわしい日々が続いておりますが、出勤時にふと受水槽を見ると、給水の救援で福島県各市からこられた水道局の方とあの緊張感のただよう受水槽の上で、お互いホースを押さえながら、純粋のズーズー弁とコテコテの大坂弁のなんとも奇妙な会話か始まり、東北の人特有のねばりと心温かい優しさを感じ、不安と悲壮感が交錯するなかで瞬時心の安らぎを覚えたのを思い出します。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック