「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 大きい揺れを感じて目をさますと同時に、いきなり「グアーン」と頭を叩かれる。これは異常だ、頭をさすりながら「オーイ大丈夫か」妻と息子の返事を聞いて、タンスの下から這い出た。「懐中電灯どこに?」「わからん」「ではライターつけてみ」混乱する二階から下に降りようとするが階段が物で一杯で、やっと降りた。懐中電灯をつけると、食堂は食器戸棚のガラスの破片で踏み場がない程だ。改めて二階に上がるとタンスが二つ倒れ、その上の重い物が布団の上を通 過して落ちている。柱時計は落下破損、五時四十六分で止まっている。よくこれで助かったものだ。
 着のみ着のままで外に出ると先づ目についたのは倒れた文化住宅。人々がこわかったことや、家の状態を話している。暫らくすると電灯がついたと思ったらその文化住宅から火が出た、ガス洩れに点灯とはどういうことだ、これはえらいことだ、うちは大丈夫か水は出ない、消防は来ない、ガスも止められない。どうなるだろ、   やがて近くの独身寮の寮生が自衛消防でマンションの貯水を放水、消化が始まった。頼む消えてくれ、しかし火勢は強い。ガスが漏れている。誰か生き埋めになっているといっている。「三人いるぞ」水をかけなから、二人助けたが途中で水がつき、ついに一人犠牲者がでてしまった。何もしてやれなかったことがくやまれてならない。
 とりあえず知人の家を数件訪れ危険なのでうちに避難するように伝え、帰る途中、附近の惨状には胸が痛んだ。さて今日の食事は残り物でよいが明日からどうするか、しかし戦中戦後の厳しさを切抜けたんだから何とかなる。問答してみた。トイレの水は風呂の残り水でよい。ガスはボンベがある。問題は飲料水だ、と心配していたら息子の友人が尼崎から水を運んでくれた。これで助かる大切に使わねば。
 問題は透析だと早速病院に走る。幸い宮本クリニックは建っている。院長、副院長、スタッフの顔をみてホッとした。自宅待機していたら大阪の病院にとの連絡が入って遠いけど、とりあえず助かった。
 透析帰りに近くのスーパーで買い出しする。何でもあるのが不思議だった。まるで外国に来ているように思えた。もてるだけ水・パン・缶 詰を買った。二回目の透析は時間待ちで近くの喫茶店に入る。地震の話から透析後は買出しですと伝えたら、帰りに店のアルカリイオン水をといわれ、水とパン、トマトなどを頂戴した。代金を取ってくれなく、店外迄見送って下さり、涙がでて御礼もそこそこに帰ってきたが近いうちに御礼に伺うつもりでいる。
 西行きほどの電車も荷物を持った人達が大勢いた。これから増えることだろう。口こみで近くの神社は倒壊したが、地下水が出ると聞いて、この日から水運搬か毎日の仕事となる。早く復旧をと祈りつつ乳母車に宮本クリニックからもらったタンクを乗せて、多いときは七回位 運んでは浴槽に入れに。
 我家築十四年屋根がやられたので雨にそなえて息子達に、シートかけをまかせ、外壁浴室のタイルの亀裂のコーキングを、始めるが見るたびに増えるようだ。飲料水の配給はどうなっているのか情報が入らない。忙しくて新聞、ラジオを聞くひまがない。口こみで水道局まで、水をもらいに、日に数回走ることになる。
 或る日タンクをのせていると、知らない人から「市が受付ないのでこれを持って帰って下さい」と、コンロ、ボンベ、味噌、ダシ、茶、箸、野菜などを下さった。積荷を終えて気がつくと走って帰られて名前を聞かれなかった。
 遠路、親せきの人が水、ボンベを、又、甥が大阪から自転車で運んでくれた。嫁は重い荷物を引っ張って来てくれた。色々な人達の親切に、何回涙したことか数え切れない。
 やがて二月一日にガス復旧、一ケ月後の二月十七日にバルブから水がでに。ありがたさがよくわかる。屋根の補修も終わっにが余震が続いている現在。水の備蓄と、懐中電灯は各室に備えて置きたいと思っている。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック