「地震によせて」
患者さんの体験記


【匿名】

 一月十七日朝。うつらうつらしている時、大きくゆれ出しました。其の内止むだろう、と思っておりましたら、びっくりする程大きくゆれ、思わず悲鳴をあげ子供たちを呼びました。夢ではと思った程で今まで想像もしなかった位 の、大きな震動でこざいました。タンスの上の経机が私の頭の所に落ちており、かたい木ですのに脚まで折れておりましたが、ゴミ箱の上に落ちたため、私に当らなく助かりました。あれが私に当っていると今生きて居なかったのではと、亡き夫が私を守ってくれた、等思いました。
 一番冷静だったのが21才の息子で「お母さんおちつけ∃」と云ってラジオをつけてくれたり、ローソク(これはいけない)で明るくしてくれたりしました。後この子は大きな、ショックを受け言葉も余り言わず、食事も取らず、唯、水の運搬と、この歴史的事実を自分の目で確かめようと、一週間程あちこち見歩いて過し、学校にも出かけず十日程ボーとして居ました。初めて学校に行った時友達が「生きて居たのか」とよろこんでくれたことに感動し、人工透析の母の通 院を助けていた(三回程たのんだ)等学友に言うと大へんだった、かわいそうに(少々オーバー)と皆で泣いてくれた、等全てが以前と変わっているのに私も苦笑し乍らも、お互の心のあたため合いをめずらしく感じ、人の心にも異変を感じました。
 火曜日でしたので二日間空けていた大切な透析の日です。この大きな「ゆれ」の、ショックで起さ上がる気もせず、唯テレビの情報ばかり見ていました。長男が私の透析が一番の問題と言って、宮本クリニックの方へ公衆から電話してくれましたら、病院の方でもかなりの被害を受けており、めどがつかないと申され、すぐ近くの宝塚病院へ聞きました。宝塚病院では水が出ておりましたので 「どうぞ」と受けて下さいましたが宮本クリニックが、やられていると聞いて先生は 「えらいことだ準備をして受け入れないと」と緊張した雰囲気でした。二時頃行きましたが透析室では、がれきの中から助け出されたばかりの方が透析を終えておられるのを見まして大変だったのだろう、そしてその方はものも言わずボーとしていて、うっ血した体がとても気になりました。   宮本の方も一〇人程来ておられましたが、又水が止まったから他へ行って下さいと言われました。私は以前豊中の岸田クリニックでおせ話になっていにことを思い出しすく五、六人は受け入れていただこう、と聞いてみました所、岸田の方でも地震で朝の方が夜に集中したのでベッドが一台しかないと申され、私だけが行くことになりました。他の方に申訳ないと思い乍らもすく車で走りました。岸田の方では、なつかしさもあり、同情もありで、本当に暖かく迎えて下さり有難く思いました。医長先生が「オー内橋さん」と言って来られ、「何やどうしたの、えらい体重少ないじゃないか。よくふやすからと書いてあったのに」と言われました「食べる物ないから増えてないんです。気のせいもあって食べておりませんの」と言った具合でした。
 その夜9時頃豊中を出て大へんな渋滞に遭い、家に着いたのが朝の八時頃で十一時間かかって帰った事になります。少しのお茶とラジオの情報番組に助けられ乍らの、長い車の中でした。一夜明けた世間は、ずい分荒れはてこれが現実とは思えない光景でした。
 以後私は住居を豊中に移し五十日位、岸田クリニックでお世話になりましに。豊中で美容院に行きました時も、宝塚と聞いただけで大へんだったでしょう、と三割も代金を割引いて下さったり、いろんな所で心をかけていただき、いつもとはちがう世間の暖かさを感じました。 かなりのものがこわれましたが、かたずける気にもなれず、落ちつかない気分で唯、ボーとして二〜三ケ月が過ぎましたが、今やっと食器等の整理もボツボツとする気になり、日一日といつもの生活がもとって来ました。
 私共の人生で歴史的な大へんな経験をしたものだと思います。ライフラインのととのった平凡な生活の幸せを強く感じています。いろんな思いと、経験をして又、何か原点を見つめ直した様に思い価値観も新たに元の生活が始まりました。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック