阪神大震災体験記
患者さんの体験記


【匿名】

 平成七年一月十七日、午前五時四十六分。
 深い眠りの中、ドーンドーンと下から突き上げられる様な音と共にグラグラグラ、ガラガラガッチャンガッチャン、グラグラグラこの間二十二秒と云われるけれども、何と長く感じた事か、その内、枕元に、足元に、物が落ちて重くなり、起さようとしても立ち上がれない。揺れがおさまって、娘が部屋に走ってきて、主人と三人顔を合わせたが、電気がつかない。ローソウ、ローソウと探しても仏壇の中身は飛んで散らばり、手さぐりで、ローソウを探しあてたものの、しばらく呆然、そのうちに娘が、ゲーッゲーッと吐き出し、頭痛を訴える。薬を飲ませようとしても、水が出ない。幸い電気ポットのお湯で飲ませる。外の息子や娘達から電話がかかった。「お母さん、怖かったね。大丈夫?」「大丈夫よ。あんたも大丈夫?又あとでね。」これだけの会話で切ってしまったが、まさか、この後、何日も電話が不通 になるとは思わなかった。夜も明け、明るくなって散らばった食器類、倒れた家具をかたつけ、いつもの癖でテレビをつけると、早や、地震のニユース。
 目を離せず家族三人、ただ座って見入っていた。昼頃、空腹に気付き、買物に主人と二人で自転車で出掛ける。マンションと道との段差は五十センチ以上あり、道は裂け、液状化の所もあり、足や自転車は泥まみれになって、必死で漕く。とこのスーパーマーケットも長蛇の列、とにかく並ぶ事にした。一時間程待って、やっと中へ入れたが、飲料水や牛乳等の売場は空っぽ、とにかく食べられる物を買って帰宅。そのうちにガスが出ないことに気付く。再びガスボンベを買いに走る。やっと一本売ってもらうことが出来た。
 当日は、午後三時からの透析日。いつもの様に出掛けようとした時、偶然公衆電話に誰も並んでいないので、一度、電話を入れてから行く事にする。 宝塚病院に行くよう指示があり、電車、パスも走っていない。バイクでは不安、タクシーを待つ事一時間。全然来ない。その間、娘が友人の車を手配してくれた。三時過ぎに我が家を出発。道中、地震の爪あとの凄まじさを横目に、大きな交差点と信号機の故障もあり、渋滞の中、やっと九時過ぎに宝塚病院に到着。
 ほっとしたのも束の間、水が出なくなったから、すぐ宮本クリニックに電話する様にとの事。がっかりし乍ら、公衆電話に走る。五回目にやっと通 じる。何時になっても良いから、引き返してくる様に云われ、元の道を引き返す。
 午前三時半にクリニックに到着。一安心。先生はじめスタッフの方々も夜通 し私達を待っていて下さった事を思うと感謝で一杯。気になるのは、我が家で待っている主人に連絡がとれず、どんなに心配しているか、という事だった。透析を済ませ、荒れはてた道路を走らせ、我が家に着いたのは午前七時半、前日家を出てから、十六時間経っていた。
 今では、当たり前の様に、すぐダイヤルをまわせば通じる電話だが、こんなに不便で、孤独だと思ったのも初めてだった。
 地震直後、皆様から色々なお見舞いを頂いたが、中でも、滋賀県から、水を入れたタンクやガスボンベ、お米等心暖まる品々を、担いで訪ねて下さった知人には、ただ驚きと、感謝で一杯だった。住所を頼りに歩いていると、途中、女学生が自転車にリュックサックを乗せて我が家まで送って下さったとの事。人の情の有難さが身に滲みたとも、話して下さった。
 朝起きたら水汲みの大仕事がはじまる。飲み水としては、大した量は要らないが、洗いものと水洗トイレに、どれだけ多くの水を使っていたか、どれだけ貴重なものかも、いやという程知らされた。
 三週間ぶりに、水とガスが出るようになり、我が家のお風呂に入る事が出来た時は、しみじみ幸せをかみしめた。
 水が出るようになった。ガスも出た。 食器を一つ一つ揃えていくうちに、少しずつ、心も落着き、以前の普通 の生活に戻ってきた。
 私の人生の中で、これ程恐ろしい出来事は、はじめてで、揺れている最中、マンションが崩れていくような気がし、十三階の我が家も、もう駄 目かと思う程であった。
 少し落ち着いた頃、避難所に、うどんの炊き出しのお手伝いに、参加させて貰った。慣れた手つきで、手順よく出来上がる。おうどんを手を合わせるように受け取られる人の姿や、皆と和気あいあいの中、大勢の方々の善意に触れる事が出来、足は冷たかったけれども、何とも云えない暖かいものを頂いた。その時見た若もの達の、生き生きとした頼もしい姿は、見ていてほほえましく、自分が少しでも役に立つという喜びで溢れている様に思った。 「今時の若ものは…」の考え方も大分変わっていくのではないだろうか。
 此の度の地震は、二度と起こって貰いたくない大惨事で、犠牲になられた方々には、不謹慎と思われるかも知れないが、一人一人が我が身を振り返るチャンスでもあった様に思う。テレビで悲惨な二ユースを見る度に、恐ろしかったけれども、住む家があり、家族が元気でいる事。こんな幸せはないとつくづく思う。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック