「阪神・淡路大震災を振り返って」
患者さんの体験記


【匿名】

 今年も又、まるで何事もなかったように、桜が咲き、そして散ってゆきました。予想もしなかったあの大震災の日から三ケ月がたちました。それまで何故かこの阪神間には大地震の心配だけはないという神話があって、私達もそれをなんとなく信じておりました。ところが、一月十七日未明、阪神二帯を突然襲った激震は一瞬にして多くの人の命を奪い、家を、ビルを、鉄道等、を破壊してしまいました。幸いにも私の家族は無事で、家も大した被害がなく助かりましたが、困った事に、忘れもしない、その日は火曜日で私の透析日。ところが、震災で西宮では電気はすぐきたのですが、ガス、水道は全く出ず、従って透析はどうなるのかしら、と言う事がまず頭にきました。とにかくガラスの破片等で散らばった家の中を大急ぎでかたつけた後、家の電話はつながらないので、外の公衆電話から午前九時半頃、クリニックに電話すると、先生から今は機械修理の業者がこの交通 渋滞でまだ到着しないので、又お昼頃電話して下さいとの事。それから三時間程して電話しますと、宮本クリニックはまだ出来ないので、宝塚病院へ行って下さいと言う事で、娘に留守を頼み、急いで支度をして、心配する主人について来てもらい、半分悲しく、半分情けない思いであちこち倒壊した建物を見ながら、取り敢えず歩いて阪急西宮北口ヘと急ぎましたが、勿論電車もなく、警察の方に聞くと宝塚への道はあちこち寸断されていてゆっくり遠まわりして歩いていくしかないでしょうと言われ、遠方にくれました。
 再びクリニックに電話したところ、何とか出来るようになりましたからどうぞと言われ、ホッといたしました。そしてまた国道2号線にそってそこから歩さ、沢山の荷物を担いだ人達が行きかう、又、大渋滞の交通 を見ながら、倒壊した家やビルの瓦礫を踏みしめながら、小一時間かかって、やっとクリニックにたどり着きました。でも未だ透析出来る状態ではありませんでした。
 その時、日頃からカリウムが高く(検査の結果六・八でした)なる方なので、応急処置としてケーキサレートを2袋飲み、ブドー糖注射をしていただき、待つ事にしました。その間、先生はあちこちの病院へ連絡して下さり、その結果 、宮本さん、七野さん、昇さん、森田さん、私の5人は吹田の井上病院へ、そして宝塚病院へいったん行かれ、そこで透析不能となり、又戻って来られた6人程の方が、大阪の白鷺病院で、透析を受けられることになりました。
 そこで主人には、家に残した娘達も心配だったので帰ってもらい、午後八時頃だったか、救急車が来て約2時間位 で井上病院へ到着。向こうのスタッフの方達が玄関まで出迎えて下さり、とても嬉しくホッとしました。そして三時間透析を無事受け、夜中にタクシーで家に帰りついたのでした。
 本当にあの日は夢中で、今から思えば先生始め、スタッフの皆様は、沢山の患者さんの対応に、大変御苦労されたと思います。有難とうこざいました。あの頃は、余震もたびだびあり、恐かったのと、水道・ガスと言ったライフラインも絶たれていたので、私達一家は吹田市江阪のホテルに、一週間程避難し、井上病院でその間、三回透析を受付りました。
 今になって思うのですが、もしあの時うまく透析先が見つからなかったらとか、見つかっても交通 手段がズタズタな時は、とうすれば良いか、等普段から皆で具体的に考えておかなければならないのではないでしょうか。そして今回の災害が、透析中でなかった事は、不幸中の幸いでしたが、もしそうなった時、どういう風に対処したら良いか知っておかないと、と思いますが、考えただけでゾッとしますね。
 今、水道・ガスといったライフラインも復活し、私達はそれを当たり前として使っています。家族も元気にそれぞれ出かけて行きました。何の変哲もない平和で平凡なひと時です。
 今度の地震でこの平凡な日々がどんなに有難たい事か、身にしみた今日この頃です。と同時に避難生活を余儀なくされている皆様が一日も早く普通 の生活に戻られる事を祈っております。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック