「阪神大震災」
患者さんの体験記


【匿名】

 平成七年一月十七日。午前五時四十六分阪神大震災が起きました。
 私は一月十五、十六日と連休で仕事が休みで、十七日から仕事の為に十六日夜十時には休み、その為に十七日朝五時に起さて居間で新聞を読んでいる時にグラグラ、ドンとまたマンションがビリビリと音をだしゆれました。
 私はゆれる中で立って妻の所に行きフトンを頭からかぶれと言って、私もフトンをかぶって、余震がおさまる迄ただ待つのみでした。部屋は食器棚、テレビ、電子レンジが倒れ、食器が落ちて割れる昔がしましたが、停電の為に状況がむからず、ただ夜が明ける時を待ちました。夜が明けてから外に出て見ますと、道路が割れ、また歩道が50cm位 の凹凸が出来ていました。また液状化現象により、シルト系土砂が道路に流れていました。   余震が続く中、マンションがどうなっているか調べました所、50cm角の鉄骨が切れている所有り、大きい余震でマンションが倒れるのではないかと本当に心配しました。
 午前九時に会社、宮本クリニックに電話しても連絡がとれず、十二時頃に会社より連絡が有り、無事を連絡し、その日一日は部屋の片付けをし、実家、友に無事の連絡に、一日中かかりました。十八日朝一番に芦屋より歩いて宮本クリニックにいきましたが、街では家が倒れ、マンションの四階部がつぶれ、また阪神高速道路が倒れ、歩道を歩く事が出来ず、車道を歩いて宮本クリニックに行きました。
 病院では患者が十人位いましたが、水道、ガスが止まっている為に、院長が大阪の中村クリニックで透析を受けるように連絡して有りましたので安心し、病院より西宮北口まで歩き、阪急電車で大阪の会社に行き、仕事の打合せ後、午後五時より夜間透析を受け、甲子園よりまた芦屋まで歩いて帰りました。
 家では水道、ガスが止まっている為に妻が水くみをし、なんとか食事が出来ていました。
 これから水、ガスのない生活が何日続くか不安でした。また余震の為に、マンションが倒れないかと、眠れない夜が有り、十九日に会社の寮に1週間避難しましたが、八日目には芦屋に帰り、水、ガスのない生活をしましたが、水くみなど大変でした。
 阪神大震災後会社の仕事は兵庫、神戸、芦屋、西宮、宝塚で震災で倒れた家、マンション、また塀や擁壁、道路などの調査、補修と毎日大阪神戸の往復です。今も毎日大阪から兵庫まで通 勤しています。私達はマンションが半壊ですが、なんとかマンションで生活出来るだけでも幸せと思っています。また水、電気、ガスが止まった時に、始めて有難さが判りました。
 宮本クリニックの、院長の力で透析も中村クリニックで受ける事か出き、また今は宮本クリニックで、元気に通 院透析が受けられ、仕事にも毎日元気に勤務でき、大変嬉しく思う毎日です。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック