無題
患者さんの体験記


【匿名】

 あの日も、いつも通りに五時半に目が覚めたが、主人が出張中でいないので、もう少し眠ろうとウトウトしていたら、ドン!グラッ!ときた。地震だと思ったとたん、それはもう、言葉には言い表せないくらい、ものすごいゆれだった。その瞬間、思わず「ワッ」という声が出て同時に布団にすっぽりともぐり込んだ。あとはもうゆれるにまかせるしかなく、何かたくさんの事を考えた様な、又半分気絶していた様な、長い時間の過ぎた様な気がしに。ゴツンと足に何かが落ちてきて、ゆれるのがおさまった時、なんとも言えない不気味な静けさだった。しばらくして近所で「ガスがもれているゾ」とか「火をつけるな、大丈夫か」という人の声がして何か大変なことになっているみたいだ、と思いつつも、恐しくて布団の中でじっとしていたら、寒くなってきたので、あのてて洋服に着替え、とりあえず懐中電灯をとりにゆこうとしたら、ガシャという音がして、食器が割れているのに気付いた。しかたなく布団をかぶって、外のあかるくなるのを、待っていた。しばらくして、おそるおそる外を見ると、そこはもう信じられない光景で東側も南側も家という家が傾き、壊れ、あちこちで真っ黒い煙が立ち、人は家の前で、ボー然として立ちすくんでいた。
 一体、何が起きたのか、夢ではないかと我が眼を疑った。自分は今、まず何をすれば良いのだううと思った。病院は、実家は、友人は、とくるくる頭をかけめぐった。幸いな事に、私は月曜日に透析をしたところだったので、良かったけれど、今日の人は大変だと思い、友人に電話をしたら無事だったので、少し安心して、次に病院に電話をかけた。建物は大丈夫だが、機械がダメという返事。その時、妹のいる岐阜へ行くことに決めた。あとはもう、電話も、こちら側からは全く通 じなくなってしまった。
 がれきの中、弟が迎えに来てくれたので、実家へ行き、もちろん取り出せるだけの薬と、食べ物をもって、その日一晩、何度もくる余震の中で、おびえながらみんな寄りそって過ごした。
 次の日、歩いて病院へ行くと言ったら家族が、心配だから弟に車で送って行ってもらうように、と言ってくれるので、乗せてもらって行こうとしたものの、すぐ家々のがれきで、身動きが とれなくなった。結局、歩くことにしてクリニックに行くと、もう大勢の患者さん達が来ていて皆、不安そうな顔をしていた。
 私は以前、受けたことのある岐阜の病院へ、行くことにしていたので、その旨病院に伝えて、次は、西宮北口までの歩行となった。大阪の病院へ行くというTさんが一緒だったので、心強かったが、東灘から歩いてきたのでやはり疲れた。梅田に着くともう別 世界で、人々は何もなかったかの如く、通勤や通学途中の様子だった。  無事に妹宅に着いたが、テレビを見ては驚き、時には悲しくなった。なんともむなしい気持ちでは、いたけれど、妹達がとてもよくしてくれるので、有難いことだと思った。
 時々、病院や友人と連絡をとりあって、励まし合った。
 
他で災害などのニユースをみていて、透析している人達もいるだろうに、どうしているのかと思ったり、もし自分がその時、その地にいたら、などと考えることもあったが、まさかその身になるとは、今でも半分夢の中のことだった様にも思える。私服のままで聴診器をもって働いていた看護婦さんの姿を見て感動した。やっぱり宮本クリニックにいて良かったと思う。又私自身、明日も同じ明日ではないという、自然界からの「喝」を入れられた様な気がする。あまりにも平和に慣れすぎて、その上にドッカリあぐらをかいていたのを少し反省した。つきることのない人間の欲望もほどほどに、と警告された今回の地震だったと思う。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック