「地震の恐怖の中で」
患者さんの体験記


【匿名】

 生と死を一瞬にして感じた平成七年一月十七日淡路阪神の大震災だ。五時四十六分、夜明前寒いなと思いながら床の中にいた。がたがたとゆれうごく、と同時に電気も消えた。全く目の前は見えなく懐中電灯と思い、立上がろうとするけど歩く事も出来ない。物が倒れ洋服タンスが今にも倒れそう、下敷きにならぬ ように部屋の片隅でフトンをかぶりうずくまる。  
 やがてゆれも止まった。主人は急ぎ立ち上がり別の部屋に行きラジオと懐中電灯を私に渡してくれた。急いで着物に着替えて外に出る準備を云う。押入れを開けようとするけど固くて開かない。やっと別 の服を取り出して着替えた。主人は玄関を開けて外に出たが、となりの屋根瓦は落ち、道に出る萎も出来ない。家は無事建っている。近所の家はつぶれて、あとかたもない有様。水が出ない、ガスもつかない。幸いにして日頃、小さい水タンクに一杯と、やかん一杯と、洗いおけに晩の内に入れて置いたのが間に合った。となりの奥さんは水を買いに、主人は走ってやっと八本程買う事が出来た。庭に飛び出した主人は帰って来た。これは大変な地震だ。近所の奥さんが家の下敷きになって死んだと云う。これは大変な地震だと一つ一つを片付けながら、今日は透析の朝だ。病院へ電話をかけたが通 じない。ベルは鳴っているから病院は無事だ。先生、看護婦さんはどうだろうと思い、三、四回で、もう通 じなくなった。さあどうしよう。何処へ行けば良いだろうと我が身を思う。家の中を片付けながら余震があるので出掛ける事も出来ない。今日は控目に食べて明日の朝は早く歩いて行こうと決め、家の片付にすっかり疲れてしまい、テレビで見る有様は、見たこともない芦屋の風景に、変り果 てた神戸の街は、火事と云うのに、がれきの山で消防車も行くことさえ出来ない、水も出ない。泣きさけぶ人々、一生懸命人命救助に走る人。  
 テレビを見ながら十二時を過ぎ突然電話が鳴った。病院からの電話、すぐに来られますか、と早速自動車に乗ったが、なかなか前に進むことさえ出来ない。人々は真夜中とはいえがれきの間をよけながら、多くの人が列をつくりながら歩いている。多くの車も走っている。やっとの思いで病院に着いた。一時過ぎて、透析三時間を終わり、出来る限り親戚 のある人は大阪、又京都、奈良方面へと、早速奈良の娘の所に行く事になりました。そのまま家には帰らず着のみ着のまま、六時二十分奈良に着きました。早速、日中泌尿器科病院へ電話でお願いし、午後二時に病院へお越し下さいと、心よく受入れて頂き、明日十時透析の準備をしてお越し下さい。早速十時より二時三十分迄透析していただきました。この病院は、東生駒駅より五分の所にあり、バスも、終点が東生駒駅で。とても便利な前川でした。先生はじめ看護婦の皆さん親切にして頂き、私は田十日間お世話になりました。そして余震の有る度に、心配になり身の引きしまる思いでした。  
 そして二月も終わりに近づき、何時迄も子供の所で甘えてもいられず芦屋に帰りました。 電車の中で感じた事は、リュックを背負い大阪を出て、淀川のあたりに来ると、まるで戦後の人様の行きかう姿を思い出しました。そして悪臭が鼻に、がれきの山積みに、復興の日は何日の事やらと身のよだつ思いです。  
 三月に入り宮本クリニックで透析をして頂き、皆さんの元気な顔を見た時、本当にうれしく涙も出ました。色々な体験もいたしました。どうか一日も早く皆の、街の、復興をお祈りして元気に頑張りましょう。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック