無題
患者さんの体験記


【匿名】

 夜来の雨に、今年の桜は咲き切らぬ内に早や葉桜となり、何やら季節の移り変わりの様変りにあれから三ケ月が過ぎつつある事に、深い思いひとしおです。
 私も生まれて五十有余年を重ねましたが、この間、山あり谷ありの私なりに人生を感じて生きてまいりましたが、今回の地震の時、思わずすごいこんなすごい出来事、体験は初めてで一番すごいのじゃないかと思いました。
 一月十七日早朝五時過ぎ、前夜よりお天気に恵まれているのに何やら私の耳にはしとしとと、耳ざわりな音で目を覚まし、おかしいなあ、雨のはずないのにと気になりながら夜具のぬ くもりにじっと身をゆだねて居りました。 平素透析の日にはもう起床してるのですが、丁度幸いに前日に変更して居りましたのでゆっくりして居りました。丁度五時四十六分、突然大きな音と共に、上下左右にだんだんきっくゆれ出しました。私は後で考えるとふとんの上で座ってぼう然と隣の部屋の物が舞い飛び、みしみしと家具の倒れる音を聞きながら、恐ろしい、こわいと思う感情も出ず、ぼう然と眺めて居りました。ゆれもおさまり初めて、息子は無事かどうか大声で呼んで居りました。家族が怪我もなく無事だった事に心よりほっとしてありがたいと思いました。真っ黒な中、足の踏み場もない有様の所で各自スリッパをさがしてはき、夜の白むのを待ち、何とか玄関の扉を開ける様、物をどけ外へ出れる様にしました。私には我が家だけがこんなに被害甚大な目になった様に思え、窓を開け、外や近所はどうだったんだろうかと眺めて居りました。身動きつかない位 散乱状態の家の中で、本当に私は今日透析日でなくって良かったけど、あの方、この方、病院のお友達は、それぞれに思い出され、透析を共々に受けている身、心は落ちつかず思わず病院に電話をして居りました。運良く先生につながり、今ここで皆様と相談してる所だとの事でした。何とか病院はつぶれてない様なので、ほっと一安心して切りました。
 十七日以降、ライフラインの停止は長い間の不自由さとして、平素当り前と思ってる日常生活から、遠い昔に帰った様な生活を余儀なくされ、初めて水道の蛇口より水が出た時の感激はひとしおの思いでした。
 東京に勤務する長男も休みをいただき帰り、久し振りに家族がより沿い心一つに生活した様に思いました。病院の方々と息子の運転する車で銭湯にも行き、まるで温泉に行った様な気分でワイワイ、ガヤガヤ不自由な中にも懐かしい楽しい想い出もあります。鉄道の寸断より、乗れる駅まで透析後のふらふらの身で歩き、途中駅前で、持参の弁当を広げ、食へ歩いたあの街の遠い昔の終戦後の活気と同じ様なすこいエネルギーの街が今でも昨日の様に思われます。今回テレビ、新聞等で初めて透析が大きく取り上げられました。おかげ様で、友人、知人、親戚 より事の外の関心と心配をいただきました。
 私もおかげ様で、先生初めスタッフの方々の大きな犠牲を払っての奉仕により、一度も欠ける事なく無事透析を受ける事が出来、家族共々感謝して居ります。私は今、戦後最大と言われるこの震災へに、先生、スタッフ、患者さん、誰一人として命失う事なく無事だった事に対しすこいと感じ、不思議な力で守られている私であり私達であると思いました。
 私自身少しでも何かで人様に喜んでいただける様に感謝して暮らせる様に日々過ごしたいと願って居ります。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック