「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 あの忘れる事の出来ない「一九九五・一・十七日」私の起床にはまだ早い、早朝五時四十六分二十七秒。人々の平和な生活を無残なまでに打ち砕いた大地震。
 その刹那、私は「あの映画に出て来るゴジラが、屋根にまたがり、家を引っ張ったり、押し倒したり、して居る様に思え」地震にしてはあまりにもひど過ぎると、一瞬その様な思いが脳裏をかすめました。
 飛び起きて次の部屋へ出た途端に、左顔面に仏壇か倒れて当たり、右足にを出した途端にテレビか太ももに激突、痛みをこらえ真っ暗闇の中、二階で寝ている、年老いた(88歳)母親を救出するべく、無我夢中、手探りで階段を上り、洋服箪笥や整理箪笥等諸々の障害を踏み越え、ベットから落ちて床にしゃがんている母を見つけ、どうして下りたのか、階段をどの様にして降ろしたのか分かりません。
 其の時付近のガスの臭に驚き、火災にでもなれば大変と、玄関から脱出を試みましたか、「いびつ」になった玄関ドアーが如何にしても開かず、外がざわついて人の気配がしましにので、大声で「ドアーを叩き壊して下さい」と叫びました。
 数分後東の空が明け初めた頃、近くの親戚で、母親や家内、娘とも4名無事を確認し、此の上もない喜びに浸りました。
 そうだ今日は火曜日にて透析日だと、しかし宮本クリニックは大丈夫だろうか?透析をして頂けるだろうか、大変気掛かりでしたか、取り敢えずガスの本管から我が家への管の元コックを切り、ついでにお隣と付近のガスコックも切って廻りました。とにかく何をして過ごしたのか一〜二時間はすぐに過ぎ去り、家内に宮本クリニック行くと言い残し、病院へ着きました処、既に大勢の患者さんが見え、院長先生にお会いして様子を伺った処、給水設備が破壊され、とても透析の出来る状態では無い事を知り、一時はどうなる事かと大変心配と不安な気持ちで一杯でした。
 しかし院長の冷静な御判断により、被害の無い他の透析病院への患者転送に必死での交渉の御様子を拝見し、感動すると共にホット安心致しました。
 数時間後先生の指示により、私共患者四〜五名は宝塚の透析病院に向かい、午前の透析終了まで待ちました。しかし二時過ぎに、いよいよ私達がお願い出来る時間が来ましたが此の病院も水が止まり、透析不能に陥りました。
 共に此処へ来た患者さんの御主人の車に乗せて頂き、大停滞の道路を西宮の宮本クリニックに帰ったのは、夕方7時頃でした。院長は申し訳無かった、今から救急車で、大阪の今里の先にある「白鷺病院」へ行き透析を受ける様指示頂き、また五〜六名で救急車に乗せて頂き、午後九時四十分頃白鷺病院に到着しました。病院では救急車の音を聞き付け玄関前に医師や看護婦さん数名で出迎えを受け、早速四階の透析室へ案内して頂き、全員一斉に透析を開始、時刻は既に十時でしたが、先生初め大勢の看護婦さん、補助婦さんから温かく迎えて頂き感謝の気持ちで一杯でした。
 透析に掛かってすぐに、夕食はまだでしょうと全員お弁当を頂き、すき腹にとても美味しく頂戴し、三時間の透析終了は日付が替わり(十八日)午前一時でした。此の時間には勿論電車等は運転されず、病院の御好意により、朝まで泊めて頂く事になり、長かった一日の疲れが出て、初発のバスの時間迄ぐっすりと寝かせて頂き、先生と看護婦さん数名も、私共宿泊者の為に帰宅されず、朝までお付き合い下さいました。
 当、白鷺病院はとても親切に被災患者を受け入れて頂き、慎重と清潔には十分注意され透析を実施して頂き、御世話になった患者全員感謝と御礼を充分申し上げ、初発のバスにて帰路に着きました。
 朝六時半頃に阪神電車、甲子園駅にて皆さんと別れ、西宮まで徒歩(阪神不通 )にて、午前七時過ぎ、西宮の宮本クリニックにたどり着き、院長に全員無事透析終了の報告と、お礼を申し上げ、避難先へ帰りました。  以上が私の地震発生から二十四時間の行動概略です。この地震の為にこれから、数多くの出来事が次々と起ります。然し紙面 の関係で今回は此の辺で止めます。
 後日新聞の報道で知りましたが、一瞬にして五千人以上の尊い命を奪い去り、九万棟近い家屋を損壊させてしまった此の大震災、悲しみに沈む人々、そして今新しい生活にむけて必死の立ち直りを図る人々…皆さん頑張りましょう。 平成七年四月五日 記

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック