阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック

6.輸送




(1)患者の後方透析施設への搬送

 17日午前中宝塚病院へ透析を受けるため3〜4名のグループをつくり、自家用車で出発した15人の患者が断水の為透析を受けられなくなったので、グループでそのま井上病院へいくよう指示するも、情報の混乱で井上病院へは行かず結局全員クリニックへ帰ってきた。
 通常なら往復1時間しかかからないのが当日は8時間〜12時間を要した。
午後からは体力のある人は3〜4人でグループを組み、自家用車で大阪の病院へ行ってもらった。通 常なら国道で行くと50分、高速道路を使えば30分で行ける大阪の中村クリニックに約4時間かかったという。
 高K血症の人はどうしても当日の透析が必要なので大阪への搬送の為に消防局の救急車を依頼した。なかなか来てくれず、何回か問い合わせの電話の中で「市外への搬送はできない。」という返事もあった。透析患者である消防局員からも事情を説明してもらい、6時間後にやっと1台来てもらった。
救急隊員は柔軟な思考の持ち主で、乗る予定外の患者を積めこんで乗せても黙認してくれたので13人を搬送することができた。約1.5時間で井上病院へ、2時間で白鷺病院へ到着したという。救急車は西宮市に9台しかなく、当日の周囲の惨状を見ると1台だけでもまわしてもらえたのは幸運であったと心から思う。
 しかし、あの時即座に兵庫県又は、西宮市が大阪府や市に要請し、大阪の救急車と救急隊員が大挙して来てくれていたら、透析患者の搬送はもちろん、倒壊家屋の下で死亡した人たちのうち、即死ではなく生き埋めになって死亡した人は助けられたのではと思い、感情が高ぶるのを禁じえない。当院横の集合家屋が倒壊し4人の母子が生き埋めになり、救急隊員により救出されたのは3日後で内2人は病院で死亡した。今後は府県の枠を超えた広域初動体制を希求したい。
 翌18日透析予定の患者は自院で透析を受けるものと大阪の病院へ行くものに分け、大阪への患者は全員独力で予約病院へ行ってもらった。18日朝には、西宮東部から大阪への電車が再開されていたので徒歩1時間、電車20分で、大阪の中心、梅田まで行くことができた。
 搬送にはその他、自衛隊に依頼し、トラックやヘリコプター、船を調達する方法もあるが、今回の初動体制には入っていなかった。又、当初の3日間は交通 整理がはとんど無されていなかった為、渋滞が著しく、すべての交通が大幅に遅滞した。交通 整理を迅速に開始することが救援ライン確保の最も重要かつ最初になされなければならない事と思われた。
 いずれにしても輸送体制の整備は公共の災害対策本部の動きにかかっており、一医院で工夫できる手段は極めて限られている。その中にあって今後検討すべきは、緊急性の高い患者搬送に対応する為、医院でも救急車を持てないかということである。法的には問題ないが、前例がないということである。維持費が安くて済む事も医院としては必須であり、現在、警察と業者に相談し、検討中である。(標準車:約350万円)


(2)バイク・自転車が必需品になる。

 震災後、幹線道路以外の道は倒壊家屋が道路にはみ出して道をふさぎ、車の往来は極めて困難であった。この時活躍したのがバイクと自転車であった。特にバイクは通 勤に大活躍し、1月の国道2号緑は中国や東南アジアの諸都市をほうふつさせる程のバイクの交通 量であった。当院でも大阪への出入口である阪神甲子園駅や阪急西宮北口駅へ行くとき、安否確認できない職員宅への訪問、買い出し等に利用した。自転車はより近距離の交通 手段として必需品であった。但し、「自転車は天下の公共物」的雰囲気があり、盗難が絶えなかった。

 

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