【匿名】
「な、なんだこれはー」突然ものすごい音がしたので、私は目を覚ましました。その時はまだ少し揺れている程度だったので、「なんだ地震か」と思っていましたが、ただ下の方からなんとも言えない地鳴りがしてきたので「これは大きいかも…」と思った瞬間、激しく揺れはじめました。私の寝ている真上の洋服掛けにしてある洗濯ざおが落ちてくるかも知れないと思い、立ち上がってそれを両手で支えました。その時「じっとしとれよー。」という父の声がし、あまりの大きな揺れに立っていられずにただ動揺していた私は、布団にもぐりました。
そして揺れがおさまった直後、外から「大丈夫ですかー。」と言う声が聞こえてさました。外がとてもざわざわしていたので、父、母、弟の無事を確認後、外に出ようと思いましたが部屋の中はぐちゃぐちゃで足のふみ場もなく真っ暗でした。懐中電灯を父が捜しだし、なんとか外に出ることができました。
外に出てみると、近所のアパートや文化住宅が倒壊していました。私の住宅は倒壊はしませんでしたが、本館と増築部分に4cmほどのすき間ができていました。
その日は出勤の日だったのでクリニックに電話をした後、家を出ました。勿論あの時は、電車が走っていなかったので家(深江)から行くには自転車しかありませんでした。クリニックは2号線沿いにあるので、とりあえずそこまで出ました。その時私は、あの地震のすごさを痛感しました。電柱は傾き道路には段差ができ、歩道は倒壊家屋でほとんど通
れない状態でした。一番こわかったのは、私の前50m位の所で傾いた家が砂ぼこりをあげながら倒壊する所を見た事でした。私はおそろしくて、何度も引き返そうかと思った事もありましたが、なんとかクリニックまでたどりつくことかできました。
中に入ってみると事務所の中は、どこから手をつけていいか分からない程の状態でした。電話番や受付をしながら事務所の中や薬局の中を少しずつ片付けていきました。時間がたつにつれていろんな事がわかってきました。まず一番大きかったのは断水でした。そこで他の病院にお願いすることになったのですが、ところが電話、ファクシミリは普通
なら一早く情報を伝える事のできるもののはずなのに混線してしまってなかなか通
じませんでした。事がスムーズに進まないまま時間だけが過ぎていくばかりでした。地震の日から私達の家族は、夜のみ避難所生活(神戸商船大学体育館二階)に入りました。家の方は住めそうな状態ではあったのですが、電気もなく今度きたらどうなるかわからない状態だったので、とりあえず避難することにしたのです。
そこでは、大勢の人が避難していました。布団や毛布をかぶっても、とても寒く外(43号線)からは救急車等のサイレンが鳴りっぱなしでした。それでも、家にいるよりは安心感がありました。今までの生活の中で家族かたまって行動することはまずなかったのに、今回の震災で一緒にいる事が、どれだけ心強いかという事を痛感しました。
最初のうちは、食料もあまりなかったので、ここでおにぎり、パンなどの救援物資をもらいました。今までぜい沢ばかりしてきた自分が情けなくなり、冷たくても食べられる物があるだけありがたいという気持ちでいっぱいでした。
今回の大震災で私は、いろいろな人・物のありがたさを痛感しました。震災から三ケ月過ぎた今、ほぼ通
常と変わらない生活を送っています。だけど、あの一月十七日午前五時四十六分におきたあの大震災が教えてくれた教訓をこれからの生活の中で生かせていきたいと思います。
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