【匿名】
一つの時代の終りを暗示するかのようにアーケードの時計は五時四十六分を指したまま止っていた。私鉄駅前の商店街の一角、軒並に店舗は崩れ落ちカラフルな色調から黒灰色一色の瓦礫と木片の山、アーケードだけ残った無残な姿が落日の乏しい光の中で、かすんでいる。
物音は自分の足音だけが空しく響く、「いつか見た街」「いつか来た道」も電車が不通
となって人通りは絶え変り果てていた。 住民は何処へ行ったのか?漂う空気も生気なく、ゴースト・タウンと化し悲劇を描いたような光景である。
兵庫県南部地震発生から一週間後現地を訪れた時の印象を綴ったメモより。
史上空前の大惨事として世界中の新聞・TV、のトップで報道された都市直下型大地震の衝撃的な揺れは秒速一・八メートルを超え時間にして二〇秒弱と云われている。
この恐怖の瞬間を体験した私の感想を述べれば、「天地創造以来こんなに狂った瞬間があっただろうか。自然現象か天災かどちらにしても破壊の悪魔にそそのかされたのではないか」こんな疑問まで持ったのは、想像を絶するエネルギー自体に悪意が澄んでいるように見えたからである。当日の日記の冒頭には次のように記されている。
「一九九五年一月十七日未明薄闇をついてフラッシュの不気味な青白い光が窓を照らした直後、大地は唸り声をあげて怒濤の如く迫り、ベッドは乱気流に突入した小型機のように揺さぶられ起き上がることは出来ない。この世の終わりか…気を失いかけた悪夢の二十秒が過ぎ巨大な物体の落下する大音響でピタリと治まった。
そして街の灯は消え暗黒の空に一本の火柱が上がる。続いて二本三本そして四本目と火手は拡がり、けたたましいサイレンが鳴り響き不安をかき立てる。脱出するか、ここに留まるか逡巡するうち空が明るくなり、上空をヘリがスピードを落とし何度も旋回しながら超低空から取材している様子、被害は甚大らしい。若しやパニックが起きるのではと想定したり、サバイバルには何が必要か、様々な思いが交錯した。家具・置物は片端から倒れ、ガラス・陶器の破片が散乱する部屋で呆然とし全身の力が抜け、ショックの大きさに心の動揺を押さえることが出来なかった。
この瞬間が五五〇〇超の人命を奪い倒壊・焼失家屋・ビルは十七万棟に達したと云われている。
そして、この一瞬が神戸・阪神の都市文化のバニシング・ポイント(消滅点)となり過去の物語へと退かされ、もう一つの意味では過去の私自身の生き様との訣別
の動機となるかも知れない。
しかし被災者の多くは過去の人ではない。九十日間に及ぶ苦しみと危険を経た今も「見えない傷」として「心のケアー」と云う難題に取り組まねばならない
これ等の人々は歴史の証人として後世のため、体験で得た教訓を生かし人類の悲劇を最小限にする道標となるような存在感を持つべきである。
激震地区の被災者の「心のケアー」は恐怖がすべてではない。第一に家族・友人を失い、第二に環境の急変に対応出来るか、第三に都市生活に不可欠のライフ・ライン(通
信・交通を含む)を絶たれ、住居・家財を失いプライバシーも確保出来ないこと。
それと激震地区が(神戸市須磨区〜西宮間) 長さ二十キロ、幅一キロと帯状の極めて小さい部分で他地区との明暗が対照的であることから「何故吾々だけが、こんな不幸な目に」との不満の声があるのは当然のことであろう。「心のケアー」には被災者の共通
点として余震に対するややオーバーな恐怖、私も例外ではない、目下、震災恐怖、シンドロームのよき対症療法が開発されることを期待している。
私自身のサバイバル方法は「自分は被災者であることをあまり意識せず、むしろ第三者の傍観者の立場を採り、その内になりきって、時として評論家やTVキャスターの様な真似事でもいい、被害者意識を軽くしようと試みているが若干の効果
はあるようだ。
被災者の中には「災害弱者」として高齢者、病人・障害者があり、これ等の人々はパニック時の救援を優先されないように思われ勝ちであるが、今回の阪神大震災では決してそのようなことはなかった。
私自身が障害者で透析患者の一人である。透析患者は病人の中でも一番手のかかる終生継続して透析を必要とし中断すれば生命維持が危ぶまれる。
この透析患者は人口比で〇・一%弱、一〇〇〇人に一人と意外に少ない。このような少数者で而もパニック時でも透析を欠かすことが出来ない私達患者は従前の社会なら後回しにされても仕方がないところである。私自身もその通
りで、こんな時、社会に負担をかけたくない。透析が出来なかったら、これも一つの寿命、運命だと覚悟をきめていた。この大惨事下、余震におびえながら、着のみ着のままリュックを背負い家族の安否を尋ね、亦避難先を求め西へ東へと国道の車道まで延々と列をなし黙々として歩き続ける異様な光景を目前にした時、当然のことであった。運命に逆らう気力はもはや私にはなくオールを失い波間に漂うボートの様に身を任せることにした。
この混乱時に奇跡が起こった。かかりつけのクリニックから予定通り透析を行うからとの連絡が人り、かけつけたMクリニックでは、院長、副院長、スタッフ全員が泊まり込み、不眠不休で窮極の状態下に貴重な水(消火用さえ不足)を確保し透析の準備体制が整えられていた。野戦病院さながらの雰囲気で透析は開始された。かつてない試練に敢然として立ち向かった院長以下スタッフの献身的行動に打たれ余震の不安も吹っ飛んだ。今だかつて、これ程劇的な場面
に居合わせたことがないと感銘を新たに震災下三時間の透析を無事終えた。
このドキュメンタリーはマスコミが見逃さなかった。NHKは震災下の透析と云うタイトルで放映し、朝日・毎日の有力紙も大きな紙面
を占めて報道し世論の関心を高め、どの様な天変地異があろうともボランティア精神に徹する人々、チーム、グループが実在し人命尊重を最優先する秩序の世界が健全であることを立証した。
この歴史的な一瞬の出来事によって吾々は多くの物を失った。と同時に悲劇の中での善意ある人々との様々な連帯に心を打たれ、これ等の人々によって高度に成熟した社会を形成しつつあることを再発見したこと、そして不信から信頼へと昨日まで見えなかったものが今日、そして明日、一段と鮮明になって来る。これは心理的財産であり、成熟社会の創意工夫によって取り組む新しい都市こそ、人類の準パラダイスに近いものとなるであろう。その意味でバニシング・ポイント(消滅点)は同時にスターティング・ポイント(出発点)でもあり、人類の自然の猛威に対する安全保障の確保も可能であることを期待したい。
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