「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 たった数十秒の大地震で言語に絶する大惨事を招いてしまった。
 平和な阪神・淡路全域を悲劇のまちに転じてしまったのだ。
 一瞬にして命を絶たれた人、逃げ出せず焼死していった人、大けがをして今だに生死の境をさまよっている人、両親、兄妹を失い一人残された幼児。
 だれもがこんな大震災が阪神・淡路に発生して、多くの犠牲者が出ることなど思いもしなかったであろう。  私は、この大震災に遭って、第二次世界大戦を思い出してしまうのである。
 当時私は3才頃で、あの戦争で父をビルマで失い、母が私達幼い兄妹三人を連れ、大阪の戦火の中を逃げまわり、命だけは助かったものの、家財すべてを失い、含まで苦労して生き長らえてきたのだ。
 この大震災では、私の家族は幸い無事でしたが、大きなタメージを受けられた方々を思うと、手離しで喜べません。
 私のすぐ近所の方も亡くなられ、それらの人を思うと涙が出てくるのを禁じ得ない。
 そんな中、被災者のために一生懸命活躍しているボランティアの姿を見ると、胸が熱くなる思いでいっぱいです。
 大震災発生当初は、大混乱のため思考力もなかったが、今八十日余りたって、少し周りを見つめる事ができるようになった。
 私は、震災へ直後から宮本クリニックで透析を受ける事ができました。
 けれども、大半の人は他府県の病院でやむなく透析をされました。
 また、他の病院の患者は、病院からの紹介が不能のため、自分で他府県の病院をさがして苦労して病院へたとり着き、透析をされた方が多くおりました。
 災害時の応急救護体制か万全であったなら、このような事態にはならなかったであろう。私は、今後あらゆる機会をとらえ、災害時の応急救護体制の整備に取り組み、安心して病院へ行ける、システムを作るために、がんばりたいと思います。
 特に印象に残った事としては、やはり院長を始めスタッフの人達の献身的な活動には、本当に敬服致します。中には大混乱の長田区から駆けつけてきた人や、自宅や家族が気がかりであるのに職務に専念し、病院に泊まりこみで私達のために尽くしてくれた人達がおられ、本当に頭が下がります。
 それから、この件については、院長にしかられるけれども、今は時効としてお許し下さい。それは一月二十日私の職場の消防隊長が心臓病の常備薬(アダラートとニトロ)が無くて困っていた。
 家にあるが帰る状態でないので、私が病院でその旨をあるナースに相談したところ、「先生に内緒にして。」と薬を出してくれました。薬をもらった消防隊長は、もちろん大変感謝していました。
 ナースの機転により、救助活動が円滑にできました。
 先日、京都の醍醐寺へ家族と行きました。
 しだれ桜が澄みきった青空の下、みごとな花に見とれていると、あの大震災への事など何もなかった様な錯覚に陥ります。
 ほんのひとときでありましたか、何か元気が湧いてきました。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック