「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 その日は、いつもの様に熟睡していた。睡眠が命の次に大事な自分にとっては、とても快適な時間であった。ところが、午前六時ちょっと前、何か大きな物音がして、寝床が、ガタガタと揺れ始めた。私は、また、母親と兄貴のけんかが始まったかな?と思い、あまり深く考えず、もう一眠りしようと思ったが、なかなか揺れが止まらず、いつもと違う揺れであることに気付いて、これは布団をかぶるしかないと思い、頭の上まで布短をかぶった。揺れている問、この地震は結構凄い奴かも知れない。マグニチュード6はあるだろうと考えていた。そうこうしているうちに揺れが止まり、布団の中から頭を出して見ると、部屋の中は、回復不可能の状態であった。足元には何か大きい物体が2つ落ちている。暗いからよく見えなかったので、その物体を触って見ると、テレビとプリンターであった。頭の上に落ちていたら、この顔はどうなっていただろうか、と思うとりゾクッとした。  次に、飛び起きて、台所に行って見ると、母親か泣きそうな顔をして、「すごいなあ」と言った。それが私と母親のその日の初めての会話であった。あとあと聞いてみると、台所に居た母親は「空飛ぶ炊飯器を見た」と、つぶやいていた。
 地震後、停電だったので、ラジオ中継で地震速報を聞いていると、自分が思っていたよりも規模の大きい地震だと報じられており、“もしかしたら、今日会社は休めるぞ”と心の中で思った。
 地震後、一、二時間後、電気が通じるようになり、テレビニュース等を見ていると、ラジオで聞いたよりも、ひどい状況であることが判り、これなら二、三日は休めるかな、と思った。
 翌日、会社から電話があり、二時間以上かけて会社に行った。会社に行くと、透析病院に連絡する様にと言われ、宮本クリニックに電話をすると、「本日から、しばらくは透析ができないので、井上病院へ行ってくれ」との事だった。このとき、改めて地震のすごさを痛感した。井上病院では、東灘から歩いて来た透析患者がおられて、「今日、透析ができひんかったら死んでまうで」と叫んでいた。このとき再度、地震のすこさを思い知らされた。
 それからの毎日というもの、日を追うことに地震の凄さを思い知らされたが、住む家があって、命があるということに、つくつく、自分はラッキーな人間だなあ、と痛感した。
 今では、水道、ガスが復旧して、通常の生活に戻っているが、私の人生の中では様々な“いつもの違う”状況を目のあたりにして意味のある経験だっと思う。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック