「長い一日」
患者さんの体験記


【匿名】

 平成七年一月十七日、連休明けの火曜日、早朝何故か寝苦しく、生暖かい、気持の悪い思いをしていた、五時四十七分、突然、縦横に大きく家が揺振られ、ドンと、突き上げられる様な衝撃が起きました。震度七、最大級の地震の発生でした。この日我が家には、主人と私と息子、そして産後で、里帰りしている娘夫婦の五人、二月七日誕生したばかりの孫は、黄疸がきついので、幸いにも入院中でした。八十一才の義母も、幸いにも留守と、自力で動ける者ばかりでした。私と娘は、布団を被り震えながら息を薄めて余震に備えるのが精いっぱいです。いち早く娘婿(和君)が皆の無事を確認する為に行動を起こしました。「お母さん、功くんが見当たらないんです。」すると主人の声で「おい和己!手を貸せ。功がタンスの下敷きになっとる」一瞬もうあの子は助からないのでは、と云う思いが頭をよぎりました。全員の無事を喜んだのも束の間、ようやく外が白む頃、タンスの下より救出された息子も交えた男性三人は近所の家々へ、応援にでかけて行きました。我が家は半壊の一歩手前で、各部屋とも足の踏み場すらありません。屋根と風呂場は、壊滅状態です。孫の身も気がかりですが、
 何より丸二日の水脹れで、今日の透析はと頭の中は真っ白でした。六時半和君が子供の様子を見に病院へ出かけました。クリニックにも立ち寄り、今後の意向を先生に伺い、八時頃には一報を入れてくれました。先生はラジオで状況を聞きながら、電話連絡に懸命だったそうです。間もなく帰った和君に九時半頃クリニックに送ってもらいました。が出かける直前に、主人が「元気な者は何とでもなるが、お前は今日は体力勝負だぞ、何か弁当でも詰めとけよ。」とどなりました。昨晩の残り物を詰めて私はしっかり御弁当持参していたのです。ロビーでは五、六人が一応に不安気に肩を寄せ合っています。長い一日の始まりです。暫くして宝塚病院では、透析出来るそうですと云う事で、定員オーバの五人が乗り込み向かう事になりました。交通 事情が刻々と悪化し、三十分の道程が三〜四時間と移行していくのです。裏道裏道と探しながら到着し、二時頃には透析出来るメドも立ちホッとしたのも束の間、馬殿先生が「水が無くなった、残念だが何もしてあげられない」との言葉、後三人待てばという直前のこの結末。私は困った事に、順番待ちの間に、安堵感から一滴の水も口にしていなかったので、一気に御弁当を食へてしまっていたのです。皆で電話に飛びつき二十数回ダイヤルを回した未に、やっとの事で大阪の白鷺病院へと手配して頂き、先に同行したメンバーで長時間かかりそうだが、大阪へ向おうとしていた矢先に「宮本クリニックでも出来る様になったらしい」との情報が飛び込んで来たのです。
 二時過ぎに宝塚を出て西宮へ着いたのが日暮れての七時頃、戻って来た私達に、どうして大阪へ行かない?こちらで出来る様になった等、だれも云ってない」との先生の言葉、もう何が何だか分からなくなりました。家の者を一日中右往左往させた挙句、何一つとして事が進まない、この日程、この病の言葉では云いつくせない辛さを味わった事でした。九時頃、先生が四方八方手をつくして下さった、救急車に乗り込み、東住吉区の白鷺病院へ向える事が出来ました。救急車の効果 は流石、凄い、ピーポーピーポーとサイレンを鳴らしながら、「前をあけて下さい」とマイクで連呼し、たった四〇分での到着です。真夜中にもかかわらず七、八人のスタッフの方々が笑顔で迎えて下さいました。すぐ体重を計り、三時間の透析の始まりです。しばらくして婦長さんが一人一人のベッドを廻り「恐かったでしょう。大丈夫でしたか」と穏やかに声をかけて廻られます。「やっとの事で助けてもらえた」と一日の出来事が走馬灯のことくかけ巡ります。
 無事終了を、家に連絡出来たのが、十八日(水)の午前一時頃でした。宮本クリニック前で別 れた主人は、まだ家には戻って居ず、想像以上に当時、移動に時間を要したのでした。白鷺病院で一泊し、始発のバス停まで痛い位 の寒さの中、白衣一枚という軽装の先生に見送りを受け、やっとの事で帰路に巻く事が出来ました。誰一人として仮眠すら出来なかったのですが、一日中働いていらした先生も、たった二時間位 入浴と子供の顔を見て来ます。という事で帰られただけで朝四時には私達の見送りと、無事責務を果 たす為にと、もどつて来られました。突然飛び込んで来た他県の患者を暖かく迎えて下さった上、一晩泊めて下さり、枕元にはお茶の準備までの、心暖まる対応に三ケ月経た今も、何か熱いものを感じるのは、私だけではないと思います。後、宮本クリニックに戻れるまでの四回、西宮北口から梅田、地下鉄で天王寺へ、そしてバスで病院までと、二時間かけての通 院生活を味わいました。
 長い長い一日の出来事も、私の人生の中で、貴重な経験の語り草として、決して忘れたくても忘れない事でしょう。

 

→目次へ戻る←

阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック