「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 あの一月十七日の早朝、自覚める寸前のこと、窓ガラスが、ガタガタと鳴った。いきなり、部屋か振動し、鍋の中で炒られているような、状態になった。大地震だと気付き、犬を抱きしめて、毛布をかぶるのがやっとであった。ドカーンと大きな音がし、床が落ちたと思った。電気が消え、同時に窓の外で、ピカと青い光が二垣ほど走った。暗がりの中で、昨日、偶然に見つけたラジオと懐中電灯を取り出した。ラジオは、簡単に地震情報を伝えていた。やがて電気が灯り、一階でテレビのスイッチを入れたが、回転台から床に落下して故障していた。  部屋の中は、これ以外に変化もなく、食器・置物・家具等も、全く元のままであった。屋外に出て、壁や石垣等を点検したが、異状はなかった。
 海の方を見渡すと、手前の街から黒い煙が出ており、すくに赤い炎に変わった。
 西宮北口に住む兄から電話がかかってきた。兄の家の向かいのアパートが倒れ、人が生き埋めになった。手分けして救出したが、一人行方不明だとのことであった。
 その日は、クリニックに行く日なので、不安ではあったが、早めに出ることにした。岩石や木が落下している場合を考え、安全な道を通 ることにした。途中、一人の人、一台の車にも出合わず、気味悪いほど静かであった。だが、夙川学院まで来ると、家が倒壊していた。地震の犠牲者らしく、全身を白布で巻かれた人が、外に運び出されていた。気持を落着かせて、二号線へと向かったものの、車は全く進まなくなった。対向車の人が、手で×印を作って、何かを言っていた。先頭車から次々とUターンをはじめ、見通 せるようになった。道路の中央に電柱が倒れ、倒壊した家か行手を塞いでいるのだった。夙川駅の方に右折したが、駅前は三方からの車の合流で、混雑していた。路面 には亀裂が入り、アスファルトが盛り上がり、大きな段差が出来ていた。ドスンと車体を振動させて、少しずつゆっくりとしか進めなかった。両側の家は倒壊し、鉄筋コンクリートの建物さえ傾いていた。路上では、毛布をかぶった人や、パジャマ姿の人達が、不安そうに立っていた。このような中を、車で通 過するのは申し訳ないと思った。 ガラガラと、瓦の破片を踏みつつ、やっとクリニックに着いた。宮本先生は、電話の応対にいそがしくして居られた。器具、装置などが倒れたり、故障したりしたとのことで、透析できる状態ではないことが判った。何かお手伝いしようとするものの、うろうろするばかりで、何も出来なかった。飲料水が必要だと、自動販売機を求めて外に出た。市場が姿を消して、瓦礫の山になっていた。倒れた集合住宅の前では、中の人を救出しようと、男の人たちが道具等を持って、あれこれと相談していた。あたりには、ガスの臭いが漂っており、ガス漏れしているようだった。
 その夜、病院の方の懸命の作業のおかげで、機械・装置か修理された。水量 が乏しいので、三時間ずつの透析をすることになった。ありがたい気持ちで一杯であった。透析の大変さを、改めて知らされた次第であった。水・装置・薬に依存し、先生やスタッフの方々に命を預けている身だとも痛感させられた。
 その夜、十二時過ぎ、自宅に戻ってきた。災害の一日は、このようにして過ぎた。災害の生々しい情報は、次々にTVで知らされた。今も、起きる余震に、あの日の恐怖がよみがえって来る次第である。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック