やっぱり神戸や
患者さんの体験記


【匿名】

 阪神大震災より、三ケ月、だいぶん記憶が薄れてしまい、大体楽しい事、つらい事、すぐに忘れてしまう性格なので少しづつ思いだすと、一月十七日、午前五時四十六分ごろ、ぐらぐらと約二〇秒ぐらい、縦横と凄い揺れ動き、女房にふとんを被れと言ったのですが、タンス、仏壇が落ちて身動きできないといい、私には何も落ちず、すぐに取り除き窓から外を見ると、我家の外壁が落ち、道路は大きく割れ、向かいの家屋は傾いたりほとんどが壊れ、兎に角、外に出ようと家の中の倒れたタンス、テレビ、冷蔵庫、店舗の商品を片付け、シャッターも目茶苦茶になっているのをこじ開け、外に出て付近を見回って見ると、マンションは傾き、家屋は潰(つぶ)れ、新開地は全滅、あまりにも大きな惨劇でした。
 電気はついていましたのでテレビを見ると、六甲、長田、三宮、東灘が写し出され、ほとんどが全滅状態で大変な事と痛感した事です。我が家も外壁が崩れ、かなり左に傾き、店舗は出入りが出来なくなっていました。しかし、自分勝手で申し訳なかったのですが、明日は透析ができるかなー、他の患者さんもどうかなーと、心配でクリニックに電話を掛けたのですが通 じず、公衆電話で通じると聞き、やっと連絡がつき、兎に角来て下さいとの事で十八日いつものように弁当を作ってもらい、(水道とガスが出ていましたので、)朝八時に家を出ましたが43号線が走れず、2号線は車が一杯で、午後五時ころに到着しました。その日は院長のこ好意でクリニックに泊めてもらい家に電話を掛けたのですがぜんぜん通 じず、やっと女房から夜おそく電話がかかり「小学校に避難したけど貴方の居場所がないので、クリニックにお世話になって下さい」との事で、十八、十九、二十日と泊めていただき、やっと二十一日に迎えに来て、女房の親戚 の川西市に、とにかく避難する事になり、院長より、豊中市の岸田クリニックを御紹介していたださ、おせ話になる事になり、二十二日に岸田クリニックにお願いに行き、院長にお会いした所、顔を見るなり、「堀さん非常に弱っている感じがしますので、連続ですが、透析をして帰って下さい。」。体重も日標から一・五キロもマイナス。ヘマトも二十二ですので点滴をしていただき、やっぱり、ものすごいストレスがあったと思います。あまりストレスをためない性質なのですが、今回は違いました。
 岸田クリニックに約三ケ月もお世話になり、院長他スタッフの皆様に大変親切に大事にしていただきました。患者一人一人に文書で「親切に仲良くしてあげて下さい」と通 達していただき、感激しました。二月ころから火、木、土、日と神戸に帰り、裏口から何とか入り、電話でお得意様からの御注文の品を配送、配達しています。
 悪夢の大震災前まで、体力的にも、あと五年ぐらいと思い、色々計画をしていた事が、全部パーとなってしまい、これから店舗兼住居の復興に、どうしても十年元気で延命しなければならなくなり、「それまでもつかなー」。私自身も、自己管理をし(たぶん、出来ないでしょう)、院長、他スタッフの皆様よろしくお願いします。  今現在、心胸比ばかり大きくなり、体重を下げ、大分痩せましたが、体力的には元通 り元気になりました。川西市、豊中市、大阪と、いい町なのですが、私は神戸人です。 「やっぱり神戸や」 このたびの、阪神大震災により被災されたり、お怪我された方々に謹んでお見舞い申し上げます。尊い生命を失われた方々に、つつしんで哀悼の意を表します。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック