無題
患者さんの体験記


【匿名】

 その日はいつもと同じ様に、五時セットのラジオがカチット音をたてて鳴り始めた。まだ若いと思っているが朝早く目が覚めるのは年を取った証拠である。頭上の電灯を燈すべく床をはいでて、ヒモを引っぱり電気が灯った。永年の習性でここまでは毎日と同じ行動であった。何分か時が過ぎ、突然地鳴りと共に今迄経験したことの無い横と縦の振動が身におそいかかって来た。初めは何事かと思ったが、やがて地震だとわかり頭からフトンをかぶりじっとしてました。やがて振動が治まり静かになったので、停電で薄暗い部屋の中を見回すと、タンスは倒れ、引出しが抜け落ち散乱して足の踏場もない状態の乱れ様でした。只茫然とするばかりです。
 その時、奥の部屋に母が寝ていることに気が付き大声で呼びますと返事がありましたので、安心をしました。様子を見に行こうと思い障子を開けようとしましたが開きません。何故かと思って割れた硝子のスキ間から見ますと、何とあの重いピアノが障子にもたれかかって倒れているのです。後で思いますと、どうゆう手段で表に出たのか思い出せません。とにかく奥の部屋に行きますと、部屋の中はすざましいばかりの乱れ様、タンスは倒れ屋根は抜け、部屋中砂だらけでした。それでも母はケガもなく無事でした。あの小さな部屋の中でよくケガも無く、何事もなかったという事は奇跡に近い出来事です。
 何事も無かった様に、太陽はいつもの様に東から昇り明るく成り、ふと気が付くとあたりが異様に静かで、表に出ますと何と近所のお寺の屋根が落ち、斜め向かいの家はかたむき、屋根は落ち、全壊の古いアパートが目にとびこんできました。変な話ですが、ここで何となく落ちつきがでてきました。我家だけが被害を受けたのではなく大災害が来たのだと納得致しました。
 その日は丁度透析の日でした。クリニックが、ライフラインが全滅だとはつゆ知らず、一度様子を伺おうと思い、電話をした所、透析は出来ないとの事、後ほど連絡をするからと、自宅待機をする様にとの事でした。大阪の中村クリニックに連絡をつけて頂き、五時三十分頃に磯貝氏の車で総勢田人で南森町のクリニックと出発しました。八時頃迄には巻く様にとの事でしたが、何せ、あの当日の道のこみようは只事ではありません。遅々として車が進みません。抜道を抜地理に明るい磯貝氏でしたので、何とか八時迄にはクリニックに到着いたしました。すぐに透析が始まり三時間で終り、とにかくホットした気分に成りました。と同じにお腹がキュと鳴りました。よく考えると今日は朝からなにも食べていません。近くのコンビニの店に入り、弁当、水、豚饅を買い込んで、車の中で腹ごしらえしながら明るい大阪の街を後にして、災害の町我が西宮へと帰路についたのです。しかし今回の大震災で我々透析患者初め、難病をお持ちの人達の命は風前の灯びの様で、大阪は被害が少なくて済みましたので、大阪で治療を受ける事ができましたが、もし神戸の様に大災害にあっていればと考えますと、やりきれません。人間健康一番、五体健全であれば最高の幸せと思います。
健康な身に帰りたい。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック