“阪神淡路大震災を体験して”
患者さんの体験記


【匿名】

 この度の大震災で多大の被災を受けられました方には心の底より御見舞申し上げます。
黙念
 一九九三年、つまりおとどしは氷雨に泣いた冷夏、秋の収かくのお米が史上二番目の出来高、値段が十粁、壱万八千円の値がつきました。一九九四年は猛暑、六月二十日より九月二十六日、其の間八月十九日に晴のち一時雨と云う日がありましたが、熱帯夜に悩まされました。其間七十五日酷夏と戦い、又各地で水道水となる水がめが干し上がり大変さびしい制限がなされました。
 そして迎えた一九九五年、今年は無事平穏な歳でありますようにと、新しい気持ちで新年を迎え、祈念いたしました。十日戎も古笹を返し、福をもたらす祈念もしました。そして三日後の十四日・十五日・十六日の三連休。私は十六日を振替え定休日に決め、身体の調整の務めにあてました。私なりに十七日から本格的な年はじめと、決めておりました。当日がやって参りました。
 妻は私の朝食と弁当作りで、五時三十分に起きて台所にて準備中、私も床を離れる心の準備をしながらも、うつら、うつらしている時でした。南の方で“ごうう”と異状な音が聞こえた後、恐怖の二十秒が起きました。今までに経験した事のない横振れが始まり、ととめをさす様な、「どんどん!!」という直下型の、まるで大きなハンマーで打たれた様な末恐ろしい感じがしました。この時私は家が崩壊と、直感しました。 ゆれが止まった時、暫くの間失神しました。
 はっと我に帰った時、台所から妻の“おとうちゃん助けて”を聞き、台所へゆきましたら、妻は冷蔵庫の取手をとり、庫の中から物を出す時でしたので、冷蔵庫と角力をとり、冷蔵庫の下敷きになっておりました。
 暗がりのなかで、家がつぶれてなかってよかったなあ、と妻と二人で安堵しました。点検後やはり被害はありました。
 飛びちっておる物の後片付けにかなり時間がかかり、朝食を九時頃食べて、午前十時頃家を出て車庫に向かいました。ついて見てびっくりしました。車が前進して、シャッターを破り突進しておりました。近所の人の協力を得て、ひん曲った、シャッターを持ち上げ、やっと車両を外へ出しました。
 その頃より世間がパニック状態になり、あちらこちらでサイレンの音を耳にしました。これは大変な事になったと、其の時思いました。一応町に出るつもりで道路に出た遠端、歩いている人が手を上げたのでドアを開き“どちらまで”と問うと「尼崎港まで行ってくれ」と言はれ、不安な気持ちで「さあ行けるかなーまあ行きつく処まで行かして頂きます」といい、国道43号線を東へ走りました。いつもと変わらぬ 流れでした。後で気が付いたことですが、西宮本町で高速道路の桁が落ち崩れており、この為東へゆく車が通 行止めで車がこなかった様でした。間もなく尼崎東本町の開門橋でびっくりしました。橋の渡る処で地面 との格差が30糎程落差があり、通行不能ですので車の交差点を右折、初島から進入した。 途中道路が没しておりましたが、早くも道路管理者が来て、シャベルカーやローラカーで補修しており、車を通 す作業をして居り、その早さにちょっとびっくりしました。車は交互進行で通 して呉れました。
 無事にお客様を南端にある事務所までお送りし、再び国道43号線を出ました。その道を通 る前に湾岸線尼崎港より西行き入口がありましたが、乗っても途中より引き返さなくてはならない状況なれば、道を逆行する様になってはいけないと思い、湾岸線の乗入れを止めました。走行途中、道義町付近で道を徒歩しておりました青年が手を上げ、「東灘まで行ってんか、大阪のタクシーでここまで来たんやけと、此の先よう行かん、と言われ車から降ろされたんや、」と言ったので、私は「東行はゆかれへんで、まあ行く処まで行きます」と言って東へ進行。43号線甲子園倒置を通 り、甲子園筋を北へ向かった処で、再び事の大きさを知りました。道路はいたる処で、かん没、突出し、車の進行をさまたげました。水道管が破れ水のあふれる処で、大勢の人がバケツ、やかんを持ち、破れた管から水を汲んでおりました。私は鳴尾御影線から今津豊中線を北へ走り、阪神国道2号線の北、今津交差点にきました。
 ここで車が前へ動きません。乗客の青年に「ここで降りてんか、もう車が前に進まんので」と言い、「ここから東灘まで八粁米くらいや。歩いてあんたの足やったら二時間もかからへん」と言い降りて頂き、私は西行が動くことに西方向に車を向けて、旧国道今津付近では道路すじ90%の家が倒壊し、こんな風景今まで見た事がないので、恐ろしくなりました。其の頃、カーラジオから「人工透析を受けておられる方は所定の病院へ行き院長先生の指示をうけて下さい」と二度、三度、アナウンスされておりました。私は余裕をもって病院へゆく事を決め、車を車庫に入れ、弁当の昼食をし、スクーターでゆきました。途中車がぎっしり、道路も人で一杯、車道の端をすり抜ける様に走り二十分位 で病院に着きました。途中喉が乾わいたので自動販売機で水分を補給しようと思いましたが、全部売り切れておりましたので、ビールの小缶 で喉をうるおしました。  病院には、大勢の患者さんが待合所で不安気で心配そうに成りゆきを見守っておりました。聞く処によると阪神間の透析施設は用水不足で、ほとんどの病院での透析不可能とのこと、院長は大阪方面 の系統の病院を当っておられました。ホットラインが不能のなかで苦労されておられました。暫くして受け入れてくれる所が決まりました。指示された病院は吹田市江の木町十六番、井上病院との事。
 しかし今度は如何にして行くか、交通機関は阪神間全部不通、そこで院長は知り合いの方が消防署に勤務されているとのことで、救急車を依頼されたとのこと、私達は救急車を待ちました。西の方向から来るので西の方を今か今かと見ながら、やっと六時半頃来ました。道路がパニック状態「救急車の流す「救急車が通 ります道をゆずって下さい。」のスイッチが着くまで入れっぱなしになっておりました。約一時間三十分位 でやっと着きました。ああこれで透析が出来ると思った時、救急車の乗務員に有難うこざいました、と言った途端、自然、涙かこぼれました。井上病院は大阪で一番規模が大さいとの事、同時透析一九三人、患者数七百七十二名、建物も巨大で立派な建物です。透析室も明るくて、快適透析が出来る感じがしました。ナースの方は浪速っ子、言葉遣いが大阪弁で、かどがとれて感じが大変良かった。ちょっと気になった事は、男性テクニシャンは大きな声でナースの方に色々な事を指示しており、ちょっと感じがわるかった。透析は三時間、午後十一時三十分頃に終わりました。私は十九日(木)、二十一日(土)とお願いして井上病院を出ました。これで又三日の命が延びた、やれやれと喜びました。途端、阪神間の惨々たる有様とは別 世界、江坂の町にはネオンが輝き、あたりの商店では深夜遅くまで店を開いており、よその国へ来ている感じがしました。私達五人はローソンでお茶や関東煮を買い、タクシーを止め、「西宮迄で行ってんか園田廻りで」と言うと乗務員は素直に聞き入れてくれました。途中暗がりでしたが何無く尼崎の常松まできた時、新幹線の軌道が崩れ落ちており、う回をされました。くるくる廻り、国道171号線に出ました。私は門戸陸橋が崩落している事を思い、武庫川西堤防道を南進して車を走行してもらいましたが、途中処々陥没してこわくなりました。2号線手前一粁位 の処で通行止めに合い、日野町より市道に出て甲子園口駅の方へと向かいました。二見町へきた時又ここから先はビルが倒れているので引き返してくれと警備員に言われた。
 後で解かった事ですが、駅前の店舗住宅の二十人住んで居るうち十八人が下敷きになり三日後自衛隊により遺体を出したとの事。私達は無残な姿の遺体のそば迄いった事で、今思うとぞっとします。私は春風小学校の前で降ろしてもらい、てくてくと一粁程歩いて家へ着きました。十八日の午前一時、やっとの思いで心が落ちつきました。しかし妻が言いました。「うちがおとうちゃん助けてと言った時なぜ飛んで来てくれなかったのか」と問いつめられ、私も言い訳をしましたが、納得がえられなかった。
 私は六十九路の渡世を送って今日まできました。色んな事かありました。 昭和九年の室戸台風、其の時は津波がこわかった。昭和十一年暮、やさしかった母が亡くなり、其の後苦難な道の人生が始まりました。
 昭和十二年中日戦争が起きました。 十三才で親父を助ける為に新聞配達。寒い冬の雨の日も、二番電車の通 る五時十三分にたたき起され、夏の炎天下の日も、毎日毎日配達集金。週刊誌の訪問販売。その頃日本は戦勝におごっていました。
 毎日のごとく南京陥落、武難、三鎮攻略、南京落城等、毎日学校で勉強することなく号外を「チンチン」鈴を鳴らして配りました。時には両端の区域だけ配り真ん中の区域の枚数を、芋屋で焼き芋と交換もしましたことも…。  その後高等小学枚を訳なく卒業、色んな企業を職を得るため受けましたが全部不採用。片親育ちの差別 で泣きました。
  昭和十六年十二月八日第二次大戦が始まりました。国民は「ほしがりません勝つまでは」と我慢しました。昭和十九年ガタルカナル島で日本は完全に負けました。大空襲が始まりました。日本全土が被害に逢い、都会は焼け野が原になり焼土になりました。
 原子爆弾二発で日本は白旗を上げました。兎小屋生活が始まりました。それから国民は食べる物も口にせず、ひたすらに、汗を流して働き続け、今日の経済大国になりました。それまでにも色々な事がありました。ジェン台風西宮に上陸。風速五十米、家もつぶれた。又オイルショック、個人タクシーは二十五立の燃料の配供で乗車拒否もしました。そして此の度の、太平の夢破る巨大烈震。二十五万戸が安住の家が崩落。  五千五百人災害死、二十秒足らずの激震で尊い命が失われました。
 しかし全国各地から救援物資がありました。ボランティアの方々の活躍には頭が下がりました。御巣鷹山の日航機事故で主人を失った方も、その時の恩返しに兵庫で、と来てくれました。 自衛隊の二万二千七百人も、色んな事で御世話になりました。テレビの画面で「今回の災害により家を失った方も紙一重で助かり難をのがれた方もみんな一緒になってがんばろうではありませんか。あの戦争で焼け野が原からみんな力を合わせて立ちあがったではありませんか。さあがんばりましょう。人にやさしく」瀬戸内寂照僧師尼が公共公告機構の言葉が語っております。
 日本は春夏秋冬、又四季があり、そのつれずれに風物風景があり、変化の情緒が変わります。今年も桜が咲きました。しかし今年の桜は妖艶に見えます。花見もなく、夙川公園の桜も関学、花の道にも満地谷の桜も淋しく散りました。只、仮設のほとりテント村の桜は被災の方の心を和(なご)ませてくれました。
 しかし公園を仮設にとられて、老人達の元気な声を出してゲートボールを楽しんでいる、姿もありません。震災から九十日がたちました。家屋の解体もまだ四分の一、芦屋市などは壊れた家が牙をむいております。
 阪急阪神電鉄の全線開進は秋頃、JRは大阪神戸間のレールがつながり、ちょっと通 勤に要する時間が短縮されました。校庭のテント生活、公共施設での生活、まだ八万人が寒さから脱出しましたが、お先ま暗、復興復旧はこれから。
 瀬戸内寂照尼も言われておる、温かいお力添に参加して、私も老のムチを打って、残り少ない余生を私に与えられた、公共福祉の運輸事業に精一杯がんばるつもりで生きぬ く事を。
 最後に犠牲霊のこ冥福を念じ被災から早く立ち上がってくれる事を祈りつつ…。
 何無不可識定空  咲く花は年々歳々同じだけれど、人同じからずブラック統源の夢破れ、震災への報り接し、平成の太平の夢さめた。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック