無題
患者さんの体験記


【匿名】

 あっ地震だ。枕元の障子がガタガタと横ゆれした。起き上がろうとしてうつ伏せになった時、胸を押し上げられ、体が浮き上がった。何かバサバサと、おちて来た様だったが、やっと立ち上がり、茶の間へ飛んで出た。長男も茶の間へ来た。余震が来る、早くと言いながらあちこち場所を探しているうちに余震が来た。ホームごたつにしがみついていた。又来るかしらと思って電気をつけ様としたがつかない。これは大変な地震だと思い、ドアーを開けて外へ出て近所の方々に大丈夫ですかと叫んだ。誰も返事をしてくれない。ひどい地震だったのにと思い乍ら又叫んだら三階のおばあさんが返事をしたので安心して家の中へ入った。しばらくして、“助けてー”と言っているらしい。又外へ飛んで出ると、「火事よー早く電話して、一一〇番に早く早く」。私は火も見る事なく電話をしようと思い電話を探したが、暗くて落ちているらしい。線を探してやっと一一〇番を回したがかからない。外へ飛び出し近所の方に大きい声で火事ですと言ったが、なぜか誰も出て来ない。下の方に降りて、通 る車を見つけて両手を広げ、火事です助けて下さいと頼みました。すぐに走って三階に上り、おばあさんがドアが開かずにドアをたたいていたので、その男の方が植木鉢を持ってガラスを破ってやっと助け出したのですが、すぐ上の火の元のおじさんには長男がドアを破ってドアを開けたが、火と煙でもう中へ入れませんでした。残念な事で、おじさんは駄 目でした。火の手は上がり、消防車は来ない、高枚生の方が自転車で連絡に行ったが、皆でヤイヤイ言い乍ら待った。やっと消防車が来てくれたが、水が少なく勢が出ない。川の水を汲み上げたが思う様にいかない。全焼となり、やっと消えた。
 近所の者一同時間のたつのも忘れて毛布を着て、ふるえ乍ら小学校に行く者、それぞれ落ち着く先を考えねばならず、近くの洋裁屋がしっかりしていたのでそこへ集まり、テレビを見て又驚き、大地震だった事を知り、透析の事を案じ乍ら時間のたつのも忘れていた。やっと十一時頃に皆とお茶やおもちを焼いて食べたりして、「透析は?、」と皆さんが心配して下さった。しかしとにかく家へ帰ってみることにして、家に帰って余りにもひどいのに又びっくり。何もかも散り、何も皆水浸し。夜は又洋裁屋にお世話にならねばと思い毛布やら探してお願いに行き、透析の事等話し合い、とにかく宮本クリニックへ連絡しなければと無理かもわからないけれどもおたずねして、歩いて出かけて先生にお会いできました。そして三時間透析をして戴きました。やっと安心して夜十一時、洋裁店まで帰り、皆待っていて下さり、案じてくれていました。ほんとうにうれしかった。隣組で一緒にやすみましたが、地震がなかったら、又こんな事ないのに、なんて話し合った。
 お互いが思いもかけず親戚の様に思われて、何か暖かいものを感じました。大地震の一日は終わりましたが、二日目からは死者が毎日増えてきて、とうとう五千人を越え、家屋の全壊、火事、天地がひっくり返り、行く人はリュック姿、何十年も会えぬ 人の電話、平成七年一月十七日午前五時四十六分、末代まで忘れ得ぬ日となりました。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック