17日地震発生後、あっという間に10日が経過しました。記憶の薄れない内に全国の透析患者や医療機関に震災直後の実態を報告しておきたいと思います。
AM5:50頃、猛烈な縦揺れで叩き起こされ、暗闇の中で手探りで居間へ行き、懐中電灯を手に取り、一路自転車で、クリニックへ向かった。
途中、古い木造住宅は軒並みに崩れ、中から助けを求める声が聞こえた。
煙があちこちからわき出しており、これから火事が多発する予感がした。
AM6:40、クリニックに着いてドアを開けると、下駄箱や本棚が倒れ、足の踏み場も無い光景であった。透析器端末は倒れていなかったが、ベッドはあちこちに散乱していた。AM7:30頃よりスタッフが駆け付けてくれ、点検を始めると、機械室の給水パイプが折れ、室が水浸しになっているのが分かった。幸い、電気は直ぐに再開された。直ちに大阪の業者に修理を依頼したが、国道が大渋滞の為、到着したのが午後3時をまわっていた。その間に患者さんからの問い合わせが相次ぎ、宝塚のA病院から受け入れてくれるとの電話を頂いたので、そちらへ患者さんに行ってもらったが、移動途中にA病院より「断水の為、透析出来ない」との連絡があり、又戻って来るというハプニングがあった。院内からの電話は何処へも通
じなくなり、公衆電話を探して、大阪の病院と連絡を取り、了承をもらい、自力で行ける人はグループを組み車で大阪へ向かってもらった。
全員血清カリウム値を測定し、高値の患者は救急車を依頼し搬送してもらった。救急車不足の為、「西宮市外に出る車は、これが最後」と念押しされた為、レスキュー隊員に必死に頼み込み、13人乗せてもらった。それはあたかも沈没船の救命ボートのような気がした。この時点で、透析再開の見通
しは立っていなかったのである。PM8:00頃、給水パイプの修理が終わり、透析器の半分が無事である事を確認出来たので、大阪への移動が困難な人達の透析を最低条件で開始した。(QD300ml/分 3時間)透析は徹夜で行い、17日の透析分が終了したのは、18日午前7時であった。8時からは、18日分の透析を開始した。
地震前に貯水タンク(11t)に溜めていた水が底を早き始めた為、市の水道局に依頼し、給水タンク車で給水してもらうも絶対量
が不足。他への生活給水もあるので無理も言えず、やむを得ず民間の人にお願いする事にした。
B酒造会社にお願いし快諾をもらうも、給水車に合う車が無く、途方に暮れていた所、社長が、Cビール会社西宮工場長に頼んでくれ、ビール運搬車を提供してもらえる事になった。お陰で、最小限の患者さんを最低の条件で透析する、という非常事態を脱却する事が出来た。20日になると、他府県からの給水タンク車の協力が始まり水の供給は大幅に増強され、大阪の病院に依頼していた患者さんを徐々に呼び戻す事が可能となり、透析条件も大幅に改善された。23日以降は、当院で透析を希望する患者さん全員に対して、透析可能となったが、自宅が潰れたり、又、断水の為、住める家の無い患者さんが続出し、約1/4の人が親類縁者を頼って疎開している状況である。但し、我々スタッフの中にも同様の条件の人がいて、勤務不能な者や、通
勤不能の為クリニックヘ泊まり込みをする者もいて、現在の患者数にスタッフの数がやや足りないという状況である。
医薬品・医療材料は卸業者の頑張りにより、ほぼ必要量確保出来ている。
透析医療に限定すると、現在足りないのは「水」だけで、給水車に頼っている現状では節水を心掛けねばならず、透析用の水の精製はイオン交換樹脂のみで行い、本来の逆浸透圧装置は使用出来ない。(これを使用すると、約2倍の水が必要)今後早急な上水道の復帰を渇望している。
今回程、周囲の善意が身に染みて有り難かった事はない。
自分の家が倒壊したにも関わらず、駆け付けてくれたスタッフ。
A病院、B酒造会社、Cビール会社の他、「水が足りない」と聞いて、10tの水を提供してくれた市会議員、自分の車で貯水池まで行って、ポリタンクで運んでくれた患者さんの家族、炊き出しをしてくれた患者さんの家族、他の通
院困難な患者さんを定期的に送り届けてくれる人。夜間に関わらず快く透析を引き受けてくれた大阪の病院。不眠不休で職場を守ってくれている市職員。
数え上げればきりがない。改めて御礼申し上げます。
最後に、反省をふまえて、全国の透析医療機関へのとりあえずの提言。
1. 電気・水道の修理出来る業者を近くに確保しておく事。
2. 給水タンク車の依頼出来る民間会社を予め把握しておく事。
3. 担当水道局に対し、他の医療機関より多くの水が必要である事を、常々説明しておく事。
4. 貯水タンクは、屋上より、地上の方が良い。(壊れ難いし、又、給水し易い)
5. 3日間、洗浄せずに透析すると、汚れの為、漏血計が作動する。
洗浄は水を沢山使うが、やむを得ない。
|