(1)裏災当日の出勤状況
午前5時46分地震発生。午前6時40分頃、私はクリニックへ到着。ただちに事務長を電話で呼び出した。その後の職員の出勤状況は表1の通
りである。特記すべき事は職員の出勤が非常に迅速であった事である。AM9時には11人の職員が自発的に集まり、しかも全部門を網羅していたので以後の作業が大変やり易かった。当日出勤予定者のうち7名が出勤できなかったが、2名が休みであるにもかかわらずかけつけてくれ、スタッフの不足はあまり感じなかった。このことは当院が住宅街の中にあり、職場と自宅が近いという条件に恵まれていたからである。(図1)又、すでに「対策本部の設置」で書いたように、管理者が早期に登院できたことが後の作業を円滑におこなえた大きな因子となったと考えられる。もし管理者(院長)がクリニックより遠方にすんでいる場合、管理職(副院長・婦長・主任・技師長・事務長)の何人かはクリニックの近くに住んでもらい、震災時の対応をあらかじめマニュアル化しておく事が望ましいと思われる。交通
手段は大半が徒歩か自転車で、自宅を出て60分以内に到着しており、一方車での出勤者は通
常通勤時間の4倍〜15倍の時間を要しており、車での出勤は避けた方がよい。
(2)震災翌日からの状況
*翌18日(水)から21日(土)まで。
1.水の安定確保に自信がない。
2.透析器の半分(20台)しか安全確認ができていない。
3.透析患者の通院が困難で来院時間がまちまちである事より、透析はさみだれ透析となった。又、患者の急変に対する対応も必要で各部門のスタッフが泊りこみ24時間体制となった。これらの事は職員の大幅な労働荷重となったが、全員きびきびと行動し、不満は出なかった。但し、緊張感と不安が交錯しており精神的余裕はなかったように思われる。労働力不足を一番感じたのは、かたづけ、清掃を担当する補助婦部門であった。補助婦は4人中3人は出勤不能となり、絶対数が不足で、かつ仕事量
はいつもの数倍にふくれ上がっており、別途に補充する必要があった。これには職員、患者の家族に応援をいただいた。又、看護部門もぎりぎりで職員の姉妹に看護婦がいたので応援していただいた。
*1月23日(月)から28日(土)まで。
依然24時間体制をひいていたが、水の安定確保に目処がつき、25日には透析器も32台使用可能であることが確認でき、患者のうち希望する人は全員受け入れられることを連絡した。透析時間も2クールとすることで看護婦、技師の勤務表も新たに作り直し、徐々に通
常の勤務へ戻しつつあった。しかしこの週が最も職員の疲れが出た時期だった。私と同様初日から家に帰らず、働き続けた技師もおり、他の者も目が覚めている間は動きまわっていて休息できる時間は極めて少なく、気の毒に思い、少しでも休ませてあげたい気がしていた。その時、臨床工学士会の方からボランティアの申し出があった。しかし、遠方から来ていただいても宿泊所やまともな食事の提供に自信がなくお断りした。振り返るとこの判断はあやまっていたと思う。当時は未だ「ボランティア」に対する私の認識は極めて低く、「手伝いに来てくれるお客様」というとらえ方をしていた。しかしボランティアの方は当然「お客様扱い」はできないことを分かって志願されているのだから、あまり気を使わずお願いし、来ていただいていたら随分助かっただろうにと悔やまれる。
*1月30日(月)以降
30日(月)以降は、職員も2名の被災による退職者を除きほぼ全員出勤可能となり又、透析患者も大幅に減少している状況が続いたので、人手不足は解消した。この時期に日本透析医学会からのボランティア派遣活動が開始された。当院では以前には派遣活動をお願いしていたがこの時期には充足しており、断らざるをえなかった。せめてもう1週間早ければ随分助けていただいたのにと残念に思った。もちろん、被災透析患者を引き受けた病院では随分活躍されたと思われる。今後有事の際、ボランティア派遣は3日以内に現地に到着できる体制をつくるべきであろう。又、有資格者でない方のボランティアのバンクも是非作っていただきたい。最初の1週間のかたづけ、清掃、食事の手配に多くの労力を必要とするからである。
(3)職員の生活
1 住宅
職員の住宅の被災状況は(図2)の通りである。 全壊はいずれも西宮市西部で、被害なしは西宮東部・海寄りであった。2名の職員が震災後退職している。いずれも住宅は全壊し、内1名には避難所に出向き復職を勧めたがショックから立ち直れず、故郷へかえっていった。ライフラインの復旧状況はクリニックとほぼ同様で、電気は大部分当日復旧し、水道は約1ケ月後、ガスは2ケ月後に復旧している。
(図3)震災後の居住は(図4)のごとくで、大部分の職員が一時的にせよ自宅以外での居住を余儀なくされている。クリニックに泊まった理由は業務上の必要の他、「通
院不能の為」が4名、「家がない・家に泊まるのが不安」が3名であった。(図5)遠隔地の為通
勤困難の4名は3日間、日勤・準夜勤務を通して勤務し、4日間は自宅で生活した。
図2 住宅の被災状況
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図3 ライフラインの復旧状況
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図4 震災後の居住
(複数回答可)
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図5 クリニックへ泊まった理由
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2 通勤状況
震災後初めての出勤日は(図6)のごとくである。1月20日以降初出勤の職員は、“遠隔地である”“本人が入院した”、“家族が入院した”という理由であり、すべてやむおえないものである。我々のような住宅地域のクリニックでさえ2割強の職員が、又退職者を含めると1/4の職員が出勤不能の状態となっのである。いわんや都心のクリニックではそれ以上の出勤不能者が出て来ると想定されるので、事態は深刻である。
震災後の出勤所要時間は(図7)のごとくで、鉄道が分断された結果3時間以上要したものが3名おり、最長は11時間かかってたどりついている。(神戸市兵庫区からバイクでかけつけた2名は3時間以内で到着している。)
3ケ月後の所要時間はいずれも2時間前後まで短縮されたが、それでも震災前に比べると全体的に所要時間は長くなっている。初出勤の交通
手段は(図8)のごとくで、大部分は自転車か徒歩であり、車で出勤したものの内3〜4名は途中で渋滞の為車を降り、徒歩にきり換えている。
図6-(1) 震災後初めて出勤したのはいつ? |
図7 震災後出勤所要時間 |
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3 疲労・ストレス
震災後、疲労・ストレスを感じたかという問いに対し、「感じた26名(93%)」「感じなかった2名(7%)」であった。感じなかったと答えた2名はいずれも55歳を超えた看護婦であった。両者共、震災日早朝より出勤し、冷静・沈着かついきいきと仕事をこなしていた。これは、看護婦としての使命感が血肉化している事と、幼少時代に太平洋戦争終戦後の混乱期を過ごした中で養われた感性によるのではないかと推測された。
疲労・ストレスのピークは震災後1週間が56%と最も多いが、2週間以降という者が5名いた。私は3月に入ってから血圧上昇や不眠・悪夢・脱力感な、今までにない体調不良におちいった。管理者(経営者)の疲労は、他の職員より遅れて発症するのかもしれない。
症状を各自に書いてもらいまとめたのが(表2)である。これはほとんどの者が、最も感じた症状を書いているので、実際はこれらのいくつかを有していたと思われる。
表2 体調を崩した人の症状
4 クリニックでの業務外の生活
クリニックでの女性の宿泊場所は第2透析室(12床)が当てられた。患者が減少している為治療上使用する必要がなく、丁度良かった。男性は職員休憩室や外来診察室に分散して泊まった。私は院長室のソファに寝たが暖房がなく寒さに震えた。数日後電気毛布を購入して暖をとった。
食料は、第1週は、お菓子・おにぎり・インスタントラーメンでしのがざるをえなかった。第2週以降はボランティア(患者の家族)が大阪から患者・職員の弁当を毎日買い出ししてきてくれ、まともな昼食をとることができた。夜は職員の帰宅した者が大阪方面
から買い出ししてきてくれた野菜・肉でバーベキューをしたり、残ったご飯で雑炊にして食べた。皆でワイワイ言いながら食べる食事は唯一楽しくくつろいだ時間となった。又、当時断水の為自宅でのトイレの使用に制限があったがクリニックでは、水洗トイレが使えたので快適であった。つまり、当時クリニックで生活することが、水・食料・暖房・情報、どれをとっても自宅よりすぐれていた。このような状態は水道が復活する2月中旬まで続いた。
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